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映画『型破りな教室』(12/20鑑賞)

学びの楽しさを、興味引く分野や夢を見出した、子供たちの眩さに目を奪われた。
メキシコ国境付近にある町の、学力が国内で最も低い小学校に赴任してきた教師・セルヒオ。そのユニークな授業は子どもたちを引き込み、可能性を開花させてゆく。

初日には大半の机を退け、「君たちは23人で救命ボートは6つ、どうする?」と迎え入れたセルヒオに、子供たちには戸惑いが。さらに翌日、何を学びたいかという質問に、すぐには意見も出ない。
それも当然で、こんな授業は彼らの経験にないから。

プログラム通りの学習、教師の統率、数多のルール。
そうした“型”を破るセルヒオの教室は、子供たちが好奇心を持って自発的に取り組む場へと変わっていきます。
先のボート問題も、除算から浮力へと関心は進み、校外でも子供たちは考え、閃き、手を動かす。そして皆で共有し、協力し、どんどん学ぶ。

間違っても挑戦する大切さを説くセルヒオ。
実は彼の授業自体、失敗を重ねてきたからこその挑戦であり、試行錯誤なんです。
そう、生徒と共にセルヒオも学び、成長していると言っていい。
それでも再び失敗を経験し、酷く塞ぎ込む場面もあるのですが……。

特に印象的なのは、不良少年のニコ。
学校が面白くなく、いずれギャングに仲間入りする予定だった彼は、セルヒオに受け入れられたことで授業へ積極的に参加する一人に変わる。そして、もっと学校に通いたいと思い、ギャングの仲間にはならないと決意する。

“型”から外れたセルヒオの教育が、道を外れかけていた少年に行く先の希望を見せた。
子供たちを押し込める“型”から解放することで彼らの可能性は開き、今までのあぶれ者はあぶれ者でなくなった。
そう、思えたんです。

でも。
子供たち自身が可能性を広げても、それを阻む要素が多く存在することは見過ごせない。犯罪や死体があたりまえの治安の悪さもそうだし、親の反対があり夢を隠して生きる生徒も、親に代わって弟妹の世話をする生徒も、そもそも通えず外から眺めるしかない子供もいる。
評価や成果を気にして子供たちを置き去りにし、不正に手を染める教師さえいた。

子供たちが各々に持つ可能性を潰されずに開ける世界であるために、どうすればいいだろう? と考えずにいられない作品でした。


予告編

https://youtu.be/H6BicE5iUvk?si=5xvwwl558I4WiKWl

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