見出し画像

「語る」内容は出来事だけではないのかもしれない

露の新治師匠の「狼講釈」がきっかけだった。
「落語をもっと楽しみたいから講談も楽しめるようになりたい」ということで講談にも手を出した。

ちなみに講談を認識したのは幼少の折によく鑑賞していた「にほんごであそぼ」で3代目山陽先生、その後数年前図書館で読んだ雷電為右衛門の絵本だった。

講談を知るにあたってまず図書館で関連する書籍を探すも全く見当たらない。調べていくうちにそれらは絶版、国立図書館に於いて電子媒体で閲覧可能、古本屋にて高価で販売されている現状を知る。

そんな中、とある噺家の師匠のまくらで存在を知った当代伯山先生、敬愛する阿川佐和子さんが松之丞さん時代の伯山先生と対談されていたことを思い出して早速検索する。

伯山先生の著書の次は師匠である松鯉先生、雑誌「東京人」の講談特集で講談とはなんぞやとその歴史を学んだ。

まず落語と講談について個人的な違いのまとめ。
落語は人々の仕草、了見、生活状況を主に噺し、講談は時代の出来事を主に語っている。
別物ではある一方、客観性を持たねばできぬ芸能であること、それが故に時代の息吹を後世に伝えることができるというのは共通事項でないだろうか。かなり砕いて例を示すと(個人内の指標ではあるが)落語は現代でいえば漫画、小説、ドラマ、講談はルポタージュ、新聞記事のような気がする。

話を戻して「東京人」にて講談師泉花さんとその弟弟子の泉太郎を中心に繰り広げられる物語「ひらばのひと/久世番子先生:作 神田伯山先生:監修」と出会い熟読している。

「講談は男がやってこその芸である」「男なら落語へ行くだろう」「これだから講釈師の男は……」
社会的性差、目に見えない男女の偏見が飛び交うように見えるのは「講談は男性の芸能であるから女性が関わるものではない」「講釈師の男は頑迷で融通が効かない」が罷り通ることが当然であった時代に違和感が生まれていること、それは時代の変容であることが推察される。
(かと言って神経質に解決を願うことはしないが、いつか「そう言われる時代があったことは忘れちゃならないね」と胸に刻めたらよいのではないかなあと感想を抱く。書いていたら先日のライブで初披露されたポルノグラフィティ「ヴィヴァーチェ」を思い出す。多様性に翻弄されないことがこれからはより求められる一方、そのことにも呑まれる危険性を孕んでいることを認識していくことで、客観性と心の安寧が保てるのかもしれないという感想を抱いた)

二つ目と前座。立場は違えど伸び悩み自問自答を繰り返す日々と他者と比較して悶々とする己自身に溺れてしまいそうになる姿は共通していると拝察する。

他者の何気ない一言、例えそれが真実だとしても正面から受け止めて思い詰めてしまうのは若さ故であろう。

泉太郎中心に視点を置くと最後の講釈場と呼ばれた音羽亭が在る時に「間に合わなかった」ことに雁字搦めになる現実に歯向かい否定するのではなく、間に合わなかったからこそできることとは何かと進む姿。

これは様々な世界にも言えることで、間に合わなかった、もっと早く出会えていればと悔しくなるのは当然である一方、卑屈さや悲観に浸っていたら際限がないこと、その伝説的な存在があるからこそ今日に続いていること、悔しさ、イジけた気分を抱えていくことで間に合わなかった分これからを存分に愛そう、好きになろう、極めようと前に進めるのではないだろうか(ポルノの「素敵すぎてしまった」の『過ぎたことはもういいだろう 知りたくないことばかり』という歌詞はよく表現されているなあと感嘆のため息をつくのである)

今や落語同様に講談の会に行く回数が増え、好きな講談師さんも増えてきた。

更なる収穫は、講談の印象の大半を占めているであろう「仇討ち」がこれまでの「仕返し」「復讐」「恨み辛みを晴らす陰鬱な行為」という認識は、多くの講談師さんの素晴らしい高座を機に「すれ違い」「惜別」「儚くやるせない」ものに変化した。すると生きる辛さと生きていく意味とは何ぞやとの問いかけを垣間見るのである。

そんな認識の変化も楽しめるのも講談の魅力であると今日も今日とて魅入るのである。


(余談)

金子みすゞ、ココシャネル、民権ばあさんなど近代史の偉人、「火消しと男爵」「生か死か」のような実際の出来事、「東京オリンピック」のような修羅場読みを応用した読み物があるように、レンジ、ポルノ、バニラズ、ミュージシャンの講談が創り出されても不思議でないよあ、聴きたいなあと空想する今日この頃。
24人といわれた時代から見ると現在は4倍以上に増えて89年生まれ以降の講談師さんも増えつつある。
空想した講談を目の当たりにする日が遠くないかもしれないと淡い夢を抱いている。