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4|栗を巡るワンダー

栗をどうするかは何も考えていなかった。どれくらい採れるのかのイメージもなくて、ただただ拾った栗が約10kg。栗には朝露がついていたので、ひとまず拭きながら、大きさもざっくり選別しながら、どうするか考える。

拭くと、ツヤッとする栗。かわいい。細い線がしゅうっと先端からお尻に向けて走っているのが、子供の髪の毛みたい。先のとんがった頭みたい。深みのある茶色の、一つ一つがたまらなく、かわいい。「栗ってかわいいねえ」などわたしが言っていると、一緒に作業していた子供は「栗ってかわいいんだけど〜」とギャルになってしまった。

そのまま人にあげてもいい。でも、栗って生で食べられないし、慣れてないと皮の扱いも厄介、落ち着いたらやろうとか思ってるうちに悪くしたりする。こんなにかわいい栗たち、そうなってしまうリスクは避けたい。ということで、あげるにしても、まずは加工、つまりすぐに食べられる状態にすることにした。

内訳は、6kgを渋皮煮、2kgを冷凍(栗ご飯用)、1kgを栗きんとん、1kgを新聞紙でくるんで冷蔵庫で貯蔵して甘みを増させてから茹でて食べる。

まず渋皮煮をつくる。お湯に入れて皮をふやかして、渋皮を傷つけないように、お尻の方を栗剥き器で剥く。お尻の鬼皮と渋皮が離れると、あとはとんがっている方に、しゅるりと剥くことができる。といってもそれなりに力はいる。

目の前にどーんとある、大きなボウル3つ分の栗たち。ここで、軽い絶望みたいな、すでにちょっと手が痛いのに、どんだけやるんだよっていう気分を味わうのだけど、これが心地よい疲れと達成感に転じることをわたしは知っている。

やり始めると、予想以上に子供が戦力になって驚いた。わたしがやっていると、やらせてやらせてと寄ってきて、剥きやすい状態にしたものを置くと、「これはわたしがやるぶん」と囲い込んで、夫が手伝おうとしても「わたしがやるの!」と剥き作業を独り占めしようとする。

さすがに完全ではないけど、8割くらいはできていて、2歳児って鬼皮剥けるのかとびっくりした。手を動かすのが好きなのかもしれない。いいぞいいぞ、と思う。そういえばテイクアウトのお弁当一覧をみてたとき、とても色のきれいなやつに、「これつくりたいねえ」と言っていた。そういう発想いいね、君。

夫にも手伝ってもらって、休日を費やして、鬼皮剥きをなんとか終える。手が痛くて、体も痛くて、だんだんやけくそな気分になってきて、でもボウルの残りが少なくなってくるとちょっと寂しいみたいな、しかしまだまだこの先は長い。

その後は台所にこもった。皮ごと食べるためには、灰汁を抜かないといけない。渋皮煮はとにかく灰汁抜きの繰り返しで、作業のほとんどは灰汁抜きといってもいい。ただ灰汁といっても赤くて、お茶みたいな良い匂いの、いい感じのやつで、こっくりとした、深みと温かみのある、良い色が出てくる。赤みにうっとりする。

しみじみきれいな色だったので、捨てるのがもったいなくなって、白すぎて着づらかったシャツと子供のTシャツを染めることにした。染めるといっても、ただシンプルに、灰汁のなかにつけるだけ。通常、鍋から流しに捨てる灰汁を、シャツをいれたボウルに注ぐだけ。

鬼皮を剥いた栗を全て渋皮煮にするのに、鍋を4回転した。1回あたり、だいたい4回くらい灰汁抜きをした。そうしてやっと、渋皮は食べられるようになる。灰汁は取り替えながら、すべて染色ボウルに投入した。

4回転して、だいたい5kgぶんくらいの渋皮煮ができた(鬼皮を剥くと重量が減る)。こうなってくるともう、つくっている途中から、人にあげたくてたまらない。

その週にはちょうど、都内からデザイナーやメーカーの人がきて、市内の伝統工芸の工房を1日かけて案内する“バスツアー”に同行する仕事があった。かなうならばバスの中で、「食べます?」てな感じで、渋皮煮の入ったタッパーをまわしたかった。漬物をタッパーにいれて持ってくるおばちゃんの気持ちがわかった。自分のなかのおばちゃんが目覚めるのを感じた。タッパーをまわす人になりたくてたまらなかった。

でもこのご時勢、何かがあっては困る。なのでタッパーは諦めて、知り合いである主催側の人たちにだけ、小分けにしたものを渡した。他にも少しずつ色々な人にあげて、順調に栗は減っている。

栗が良いのか、温度変化に気をつけたからか、渋皮煮は全く煮崩れることなく、きれいにできた。あげた人も、みんなとても喜んでくれた。そうなると次に、売るのはどうなんだろうって気持ちが湧いてくる。1日だけ朝市とかに出店して。

しかしちょっと調べた限りでは、なかなかハードルが高い。加工販売免許取得自体は講習を受ける程度のもので、難しくないと思うのだが、そのための要件として、家の台所とは別れた加工場が必要だったりする。

食中毒とか怖いわけで、そりゃあそうだってことなのだが、おすそ分けと販売の間には大きなジャンプがあるというか、軽い気持ちではできないことなのだよね。買えるものって、その多くが、自然の恵であることに加えて、軽い気持ちではできない人の営為の結晶なのだった。

灰汁につけたシャツは、なんとも優しい、黄色みのピンクになった。複雑で素朴な色。売っている色にはなさそうな、再現性の低そうな、あらゆる意味で自然な色。

良い色を発色する強い皮なのか、強い皮だから良い色を発色するのか。イガといい、鬼皮といい、渋皮といい、栗の種ってすごく守られている。

そして、灰汁って基本的に染料になるんじゃないかと思った。灰汁を抜いてからじゃないと食べられない山菜とか、ヨモギとかの灰汁。

きれいな色の花をみると、この花で染めたらどんなきれいな色になるかと思うけれど、花は花として美しいことに力を使い切っていて、他のものを染める余力は持たない。染料になる花ってたぶん紅花くらいだ。逆に、人が利用する際にうっとおしく感るくらいのもののほうが、強くて、染める力があるんだと思う。

思いつきで染めた、呉汁処理も媒染もしなかったシャツは、ちょっと色ムラがある。染めてみることは簡単だけど、ある品質に至るには数をこなすことと探求が必要になる。ただわたしの染めは、ものとしての質よりもやってみることから広がる着想とか興味のきっかけという位置づけで、また春になったらヨモギの灰汁で何か染めようと思う。

渋皮煮の後には、甘いシロップがのこる。大量の砂糖が投入された栗風味の汁。普通に煮物などに使ってもいいのだが、せっかくなので、そこからまた別の栗製品をつくることにした。

まずつくったのが栗キャラメル。牛乳と混ぜて、ひたすら煮詰めるだけ。これまた、ピンクブラウンベージュみたいな良い色になって、味も気に入っている。

まだまだ残っているので、今週末には栗アイスクリームをつくろうと思う。あと、栗プリン。それでも終わらなかったら、もういちどキャラメル。




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