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乳幼児育児ノンシームレスタイプ

「テレビに映ってるのみたよ。なんか、いいね」久しぶりに会った友達にいわれる。昨年発足した砺波散居村の文化的景観指定などを目指す協議会の様子がニュースで取り上げられていたらしい。「ああうん、良い活動だよね。あの日は書記で参加してたんだ」「活動もだけど、娘さんが横にいる感じがなんかよかったんだよ」「あらそうなの、それは嬉しい…」協議会活動とはだいたい夜に行われるもので、預けられなかったから子も連れて行ったのだけど、致し方なくのことがいい感じに映ったならばとても嬉しいことで、そこにはお菓子をたっぷり用意して子どもの席も用意してくださる協議会の方々のやさしさも映っていたと思う。

最近とりあえず、子育ての悩み、不安みたいなものがない。一年生の夏休みまではなんだかんだ、これでいいんだろうか、わからん、やっぱりこれではだめなんでしょうか、どうなんですか、といった感覚があった気がするんだけど、とりあえず、ない。ただただ毎日、かわいい素敵おもしろいと愛で、愛でられている。なんかおもしろいことしてよって芸人潰しみたいなことを催促されながらも、何でもやったら笑ってくれるし、笑わせてもくれるし、「雪遊びが楽しいから冬も好きになった。春も好き。夏も好き。秋も好き。全部好き!」「寒さはもうすぐ終わっちゃうんだからこの寒さを楽しまないと!」などの言葉も尊く、お人形遊びはしんどいんだけど私が下手なのもわかってるからそこそこに切り上げてくれるし、私が生理でダルくて起き上がれない日も自分でご飯を食べて学校に行けるようにもなり、いつも『ドラえもん』を読んでいる模範的富山県西部の子どもに育ってもいて、「のび太ってノビノビしてるからのび太なのかなあ」など、あ、怠けたがりで欲がたくさんあってすぐドラえもんに泣きつけるのび太ってノビノビしてるのかあと発見のある発言をしたりもしていて、だから、ってつながるのもなんか違うけど、ずっと好きだったけど、ただ子どもが好きなだけで過ごしていて、一年前はこうではなかったよなあと思う。

小学校の二学期の保護者面談では、何でも諦めずに取り組む主体性と、分け隔てなく人と接する優しさといったものを褒められた。それは何らかの成果じゃなくて、生きていける人間性みたいなものがあるってことだから、これから先に何かあったとしても、そうしたら一旦ここまで戻ればいいよみたいな、ひとまず乳幼児期の育児は無事に修めたような、肩の荷が降りて安堵する感覚があった。

小学生の子どもといるのはとても楽しくて、ラクになったと思うのは、私は、乳幼児育児はあまり得意じゃなかったのかもしれない。四柱推命に詳しい友達と、子どもが4人いる友達と話している時に、「子育てに関して異空間に投げ出される感覚があるタイプ」と言われて、え、まじでそれなんだけど、となった。得意じゃないっていうのも違うのかな、「異空間に投げ出される」がまさに的確で、異空間にいかないと子育てできない、異空間を生きる枠組みが要求されてしまうノンシームレスタイプというか。で、子どもが4人いる友達はそうじゃないらしくて、「別にそんな大変なことなくない?」みたいなさっぱり感で、人ってほんとうにそれぞれ違うんだと、その涼しさに実感する。

ノンバイナリーなどいうけれども、男女ってそんなにもともとくっきり分かれるものじゃなくて、女と男、女性性や男性性というものを、我らはいうほどわかっていないのではないかしら、女も男も一言では言い表せない、色々な表情、奥行き、多層性や多面性を持つものだ、という認識にたてば、いかなるジェンダー規範のある社会においても、身体の性差はなくせないなかで右往左往しながらも、女と男という二項対立におさめることはできない自己を掴み発揮して、人対人として生きていくことができるのではないかと言いたいが、そのうえで思うのは私の認知とか物事の捉え方にはどちらかというと男性性優位というか、男性性に分類されるもののうちの何らかを多めに持ってるところがある気がする。だから妊娠出産がおもしろかったけど居心地が悪くもあったし、それを言葉にすることもできたのかもしれない、と、そのあたりのことを去年書いたZINEが、となみ民藝協会会長の太田住職とか、グラフィックデザイナーの山口信博さんとか、たぶんやわいやの朝倉さんとか、主として男性に好評だったので、思った。

女性性と男性性を両方持っているのは全員がそうだから、そういう部分があるだけじゃあ何もいえてないんだけど、じゃあどの部分がどのようにっていうのはそんなに突き詰めたいとは思わない、なんかある気がするのよってとこで終わるのはそういうとこだぞ感もありながら(何が)、いまだに男の人に間違われてトイレでビクッとされたり、知らないおじいちゃんだかおばあちゃんだかわからない人に「お父さんに似て美人だねえ」と子を褒められていやなんでお父さんのこと知っとんのてなっていや私のこと?さすがに目が悪いのではと思ったりする、といったことと無関係でもないと思うんだけど、まあとにかく、大きな違和感があったのは確かなことで、その強烈な体験はでも、幼い頃になんだかすごくいいと空の下や森の中にいて思ったこととどこかで繋がっているんだろうと、記憶や言葉や知識によって近づきつつあるところもあるし、それは俳句をはじめたことや、里山の暮らしにもつながっていて、死ぬまで飽きない何かを開きつつある予感体感手応えがあるから、体験できて、ほんとうにありがたいことでもあったと思う春隣。

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