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漠然と、感謝のこと
子どもが「ママおしゃべりして」という。「お友達がきたらいっつもずうっと喋ってるじゃん、私ともお話しして。でも私は話すことがないからママが話して」とのこと。
確かに、友人知人が来るとずっと喋っている。ゆったり時間をとっておいても、話すこと、聞きたいことは尽きなくて、ああもうお別れの時間、といつもなる。会うのはそれぞれ別々に生きてきて今もそうである人生のほんの一瞬、だからこそ会った時には話が尽きないのだけど、私とはそのようには話さないね?話して?、と子どもは思った様子。
何を話そうか考えながら、自分が小さかった頃の話をしてみる。どういう小学校だったか。どういう家に住んでいたか。小学校では何をしていたか。どういう子どもだったか。好きだった絵本のこと。「え~ヤバ!すご!」「わたしだったらそれはやだ~」「そんなことがあるんだ…」などなど、ごく普通に会話が成立する。おお。
いつだって子どもの成長は目覚ましいのだけど、小学校一年生には一年生の成長があって、その子どもが、とても興味を持って耳を傾けて、ママお話しして、というのはすごく大事ないわゆる教育的機会なんじゃないの。ほんのり気を引き締めて、洗濯物を干したり仕事で移動する時間にも、何を話そうか考える。
自分が大事と思いながらも身につけ切れていない感覚とか、話してみることで再認識できていいかもしれない。たとえば感謝は大事なんだよ、とか。
感謝…そう思ったら、子どもの頃にいわれて腑に落ちなかった論理を思い出した。ご飯を食べきれない時「世界には飢えている子もいるんだよ、食べものがあるのはありがたいことなんだから残さず食べなさい」、何か不満をいった時「この世にはもっと貧しい環境で生きている子もいるんだよ、あなたはとても恵まれているんだから感謝しなさい」などの論理展開。
なんで今ここに地球の別の場所や境遇の上下を持ち出すんだろうと、大変な状況にあることが説得材料に利用されるようなのは嫌だなと思っていた。自分がそんなふうに、あの子よりはマシなんだから感謝しなさいって誰かに話されていたら嫌だなって。
でも伝えたいことの芯は「当たり前のことは当たり前じゃない」ってことだったのかもしれない。今ここにあるもの全部が、奇跡みたいなもののうえに成り立っていて、次の瞬間、明日には、明後日には、どうなるかはわからない。同時に「今ここ」は、これまでのたくさんの人の努力によって積み上げられてきたものでもあって、そこには自分も入っているとしてもそれだって与えられたものだから、感謝を忘れてはならぬと。
これは感謝押しつけ我慢しろ理論ではなくて、そう感じられているほうが実際的に良いことがあるという利の側面からみてもそうなっていて、だから親なり先人たちはそういうことを教えて、それが続いてきている気がする。感謝して全て受け入れろ、ではなくて、捨てるや離れるといった判断がされたとしても、感謝があれば丸く収まる気がする。感謝があると物事の流れがスムーズに、拗れない、事態のひとつ外側に自分が立つことになり、冷静な判断ができるような気がする。
食べられないものを無理に食べることはないけど、感謝がベースにあったら、食べきれないから明日にとっといていいかなとか、誰か食べてもらえないかなとか、はじめから少なめにしておこうとか、工夫の発想が出てくる。不満も同じく。ブウブウ言っていると怒られたり、我慢しなさいよと押さえ込まれるのが、まず感謝があっての提案であると話が転がっていって、自分の望むものが手に入りやすくなる、たぶん。
感謝して我慢しろじゃなくて、感謝が腑に落ちてあるほうが望みに近づける、たぶん。心の状態がいいほうがものごとはよく運ぶ、たぶん。運が良くなる、やる気が出る、与えられているもの、持ってるものに気づける方が戦いようがある。
ということで、感謝について子どもに話してみる。
「感謝って大事なんだよ。あたりまえのこともあたりまえではないのね、今あるもの全部、たとえば大きな地震があったらお家も道も崩れるよね(あれ、地震のことを思い出して怖くなっちゃうかも、ええと、軌道修正)、でもそれでも人は必ずそこから助け合って立ち上がっていくから、大丈夫なんだけどね、でも当たり前のことは当たり前じゃないから、感謝するのは大事なんだよ」
「うん!」
「………」
「………」
あれおかしいな…感謝の話、あっという間に終わってしまった。会話じゃなくて「語る」って技がいるものなんだろうな、今日のところはこれ以上がないなあ。
余談だけど子供に「支配するって何?」て聞かれて、説明がとても難しかった。支配って何だろうか。制圧とは違うのか、支配、支配…口頭でその場で端的にパッと伝わるように伝えるのってとっても難しい。
で、じっさい、感謝するってなんだろう。いつするの。どのように。いただきます。ありがとう。ごちそうさま。まずはそういう挨拶をしっかり。ありがとうをしっかりする。あとは…?
富山に住んで、仏教がとても身近にあるようになって、家々に仏壇があるなあとか、仏教って何なんだろうとか、思ったり考えたり仏典読んだりするなかで、色々な意味がもちろんあるなかで、心が感謝の状態にあるのは良いことだから、そのための案外、科学的な方法論なのかも、と思うことがあった。
もしかして、仏壇に手を合わせるとか、神棚に手を合わせるとか、感謝の習慣づけのために、重要なことなのかもしれない。そういうのなしに、いつどのタイミングで何にどう感謝するんだかわからない。そういうのなしに、感謝は大事だよって言っていることの方が漠然としすぎて、おかしな方向にスピリチュアルじみる気がする。
神棚や仏壇がないと、感謝というものも遠くなるのかもしれない。手をあわせる習慣があれば、その形式に合わせて意識が感謝を拾っていく。
なるほどなあとなんだか納得。せっかく富山にいるのだから、おりんのひとつくらいは家に持ってみようか。あれはほんとうにいい音がする。毎日あの音を鳴らして掌を合わせるのは良い時間である気がする。といって結局まだ砥石も買ってないのだけど。