対局にある幸せ
わたしにとっての幸せとは?
色々あるけど、中でもたぶん、重さを感じること、集中すること、特にこの2点が挙げられる。
前者の「重さを感じること」は、自分以外の誰かの質量を身体に感じた時。例えば、仰向けに寝たわたしの足の間に挟まって眠った子どもの全体重。同僚や先輩に励ますようにぽんぽんと叩かれた肩の上に乗せられた手の重み。狭い洗面室でわたしの後ろを通る時、気遣って軽く優しく触れた夫の手の重み。
たぶん、意図せず、不意に加わる重みに弱いのだろう。今挙げてみた共通点だ。
この「重み」には、自分以外の存在が、確かに存在していると確信できるという側面もある。存在の確信が欲しいのかな。
重みには、「触れる」が加わる。触れ方により、意思や気持ちを感じることもある。触れただけで、気持ちがわかる。ともいえる。優しく触れたのか、気遣わしげに触れたのか、遠慮なく叩くように触れたのか、それだけで相手の気持ちがわかる。
そして触れると残るのは、体温である。触れた人の「ぬくもり」だ。人に触れること、触れられること、というのは、条件が揃わないと起こり得ない行為の一つである。触れる、ためには、パーソナルスペースを越えなければ成立しない行為であり、その一線を超えてくるぬくもりは会話だけよりも訴えかけのパワーが強い。
ひとつ目の幸せ「重さ」の影には、「触れる」「ぬくもり」が隠れていた。さらには、それには、対人間である。という要素も隠れていたらしい。ただ、あたたかくした鉄の塊を乗せられても、それは幸せではないということだ。ということは、正しくは、「信頼している人のぬくもりを伴う重みが幸せのひとつ」ということになる。
後者の幸せの「集中すること」は、仕事に没頭している時、文章を書いているとき、絵を描いている時が多い。例えば、裁縫とか、アクセサリーづくりとか、工程の多いものは省く。動きは少なく、自分の思考が拠り所で体の動きは忘れるほどに意識が考察だけにトリップして、伴う身体の動きは自動化する動作のことを指したい。それが、仕事を捌くとき、文章を書くとき、絵を描くときだ。
子どもが小さい時に、在宅ワークで文章を作成する仕事をしていたことがあった。そのとき、子どもの保育もしていた。子どもが遊びに集中している隙を見計らって、机に向かい、文章を作成する。集中して書き出したと思ったら、お母さん、と呼ばれる、子どもが遊び始めたらまた書く、集中し始めるとガチャンと予期せぬ物音がするなどのくりかえしで作業はなかなか進まない。または、行動が気になって全く作業が進まない。などという体験をした。
これは、私には向かないと思った。思考が行ったりきたりする。マルチタスク脳がひどく疲弊した体験だった。
この体験から知ったことは、私は、集中して物事を達成することがとても好きだったんだなということ。看護師の仕事の際、どんなに忙しくても、どんなに雑務が増えようとも、定時までのタイムスケジュールの中で、効率化を図りながら、第一に、事故なくいかに定時までに仕事を終了するかに心血を注いでいた。やり終えた時は、いつもきっと達成感があった。与えられた仕事をしていただけ。そう思っていたけれど、それは幸せなことだったんだ、と今更に思う。
また、初めての長編小説を書いた時には、没入して没頭した。あのなんともいえない思考の中だけに身を置く感じは、快楽でしかなかった。頭の中で、自分の伝えたいテーマや言葉を伝えるために紡ぐ物語の主人公の言葉や行動。登場人物の感情の動きに伴う、目の動き、身体の動き、発せられるセリフ。行動の時間軸の調整や、物語の整合性の確認など、上手い下手は置いておかせてもらって、頭がその世界にどっぷり浸かる感じが、何とも楽しかったな〜。うん。早く身の周りの忙しさの調整を終えて、また長編小説にトライしたいな。
おいおいおい、なんてことだ、「重み」と「集中」この幸せの要素はひどく対極にある。
この「重み」を得るには人と共にいねばならない。「集中」どころではない。「集中」を取れば、「重み」を得るための人は邪魔でしかない。この間を調整して行ったり来たりできることが私の幸せ、ということだろうか。なんて贅沢ものだろうか。対極にある幸せを行ったりきたりできる幸せに身を置いているからこそ出た発想だ。この環境に感謝しよう。例え今、どんなに困難な状況に自分が置かれたとしていても、これもきっと全てが何かの糧。あの自宅でのwebライティングの経験のように。何かにつながっている。noteで1本の記事になる。それだけでも、物書きにとっては、幸せなこと。
ああ、また幸せが増えた。
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