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ポリコレを噴き上げてみた
ポリコレに出会った、ある日のことです。自分のなかでポリコレに対する、ある結論を見い出したので聞いてください。
それは、先日、家族でマックに行った時のことでした。ポテトを食べる手が自動化して止まらないわたしの目線の先に止まったのは、70歳代くらいの女性…、いや男性かわからない方でした。
その方は、肩まで伸びたウェーブがかかった髪をハーフアップにして後ろで止め、前髪は巻いて横に流していました。全体的にきちんとセットされている印象で清潔感がありました。髪色は明るいブラウンでそれが華やかな印象も与えます。ピンクのカーディガンを羽織っていてもわかる骨ばった体型や、袖から出ている細い指が、スレンダーな女性を思わせましたが、顔をよく見ると、顔が長く、こけた頬や、下がった口角、少しくすんだ肌色からは、男性性を感じました。席にすわり、机の上に本とノートを広げ、背を伸ばし、本を見ながら時々ペンを持つ手を動かしてノートをとっているようでした。その所作には品があり、落ちついた女性の振る舞いのようにも見えます。
歳をとると、男性も女性もその風貌に区別がつかなくなる傾向にあるので、まさに今、目の前の方が男性か、女性かがわからなくてわたしは首をひねっていました。
しかしすぐに、ふと思い、その性差はこれからは、区別に値しない価値観になっていくんだよな。と。見えたままの姿を受け入れるということ?では、この人をなんと呼ぶのが正解なのか。
うーん。
区別していけない、ではなく、目の前のその人の風貌をそのまま受け止める、ということ?そのままがミソで、女性でも男性でもない、個人として考えるということ?
そうすると、彼女、彼、おばさん、おじさん、おじいちゃん、おばあちゃん、男、女、男性、女性、全部だめよね。うーん。
でもなんと呼べば?もしつけるなら、あなた、あの方、とかかな?あとは、個人とか?故人みたいで縁起がよくないか。
うーん。さて、なんと呼ぼう。
小学校では、男子も女子も苗字に「さん」づけだ。性差の区別をなくす文化は次の世代に始まっている…。
よし、まず、一応線引きをしよう。
人間は生物だから、遺伝子的に性差の区別は通常持って生まれる。この生物学的性差については言及しないものとする。だから、生まれながらの性については男女の差は言ってもいいね。
言及するのは、人が社会生活を営む上で、性差や見た目の特徴で個人を呼ばないと決めた場合には、どのような言葉で個人を示すかについてである。
うーん、うーん。
そんなことを考えながら、ポテトを、相変わらず頬張ってモゴモゴしながら、隣にいた夫に、「あれはおじいちゃんかな?」と聞いてみました。
「そうじゃない?」夫は軽く答えます。
「そういうの言っちゃいけない時代になってきたよね」とわたしがいうと、夫はほんの少し笑って「ポリコレやな」と言いました。
ポリコレ。私的には差別的なものの味方をフラットな見方にする流れのこと、と解釈しています。
ポリコレを検索しました。ポリコレとは、ポリティカルコネクトの略で、もとの語源には「政治的正しさ」「政治的妥当性」という意味があり、最初は政治的に使われた言葉だったようです。看護師や保育士はもともと看護婦、保母、などと呼ばれていますが、こういった、性差が含まれる呼び名や肌の色、外見、障害の有無などで差別的になるものの見方を変えていこうというのが現在のポリコレ。障害者の表記が障がい者、になったことや、痴呆症が、認知症に代わったこと。はだ色がうすだいだい色になったことなど、様々な立場を想定して、変更になっていることがある。
ポリコレの目的は多様性を重視すること。
しかし、ポリコレが行き過ぎると、その多様なものに配慮した表現に留まる事が増え、結局多様性を抑圧する問題になるといいます。
そして、ポリコレという言葉自体が、そういった多様性を揶揄する、皮肉やひやかしの意味をこめて使うこともあるといいます。
しかし、ポリコレだけでなく、LGBTQ、ルッキズム、ホワイト社会など、社会がぐるぐる巻きに人々を区別したがっているように見える気もしています。
いや、ちがうのかもしれません。区別できてきたからこそ、それらを認め合おうよ。という流れに繋がっているのでしょうか。そのどちらの流れも相互作用で出現しているような気もします。
そうか、まるで、様々な価値観が噴水の噴き上げられた一番上で、下に落ちてくることなくひとつひとつピョンピョン舞っていて、それを人々が見上げて、どうやってこの価値観たちを取ったらいいのか、「考える人」みたいに、肘を曲げて手に顎に置いて、まさに考えているみたいだなと思いました。
取りに行こうとすると濡れちゃうし、道具もないし、なかなか手が出せない。だけど、必要になりそうだから手に入れておきたいけど、なかなか難しい。
ポリコレってわたしにとって、そんな難しさがあります。手荒く言葉にすると、それこそ、誰かの心を傷つけかねない案件だから。だけど、だからこそ、とりあえずは手にとらないといけない。眺めてみないといけない。そう思っています。
結局、考えてみるという点においては、揶揄するのも、性差に今一度考える機会だと捉えるのも、おなじことのような気がします。その物事にふれ、自分のフィルターを通しているんだから。関心を向けた証といえるだろうと思います。
とにかく心にポリコレって?自分にとってのポリコレは?その事実を通過させる。それが大事な気がします。
だから一旦、ポリコレ的視点で身近なことから解決してみる。
さて、あのお方をなんと呼ぼう。あ、出た。「お方」わたしは、名前の知らない距離のある方、全てにたいして、これで行こう。
「あのお方」
いいね!
わたしも何か価値観を見つけたら、あの泉にまきに行こう。噴き上げられた価値観は、人々が考察するのに役立つから。
参考記事URL
https://eleminist.com/article/3449