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エレンの筆致

「エレンの筆致が変わっちゃったよ」と夫が淋しそうに呟いて、私にクリーム色の便箋を差し出した。文字を習いたての子どもの不器用ながらもしっかりとした筆圧とは真反対の、どこか恥いって震えるような流れに、私も目を瞠った。 

夫の姉であるエレンは、まるで音符のように明瞭で流麗な筆遣いで、家族の記念日には欠かさずカードや手紙を送ってくれた。森を見渡す広々としたバルコニーで栽培するトマトやルッコラの育ち具合、行きつけのカフェのオーナーとの快いやりとり、年頃になった孫娘たちがボーイフレンドと発つ休暇など、日々のできごとをなぞる便りは、ドイツにある彼女のヴォーヌング(住まい)の佇まいをそのまま文章にしたかの、私的でこじんまりとした博物館さながらで、細やかでふくよかな報せに充ちていた。

二十世紀終盤までに生きた人類が永らく続けたように、手書きの私信だけを遺す最後のひとりであろうエレンは、かたくなに機器を拒みながら、ひたすらに血の通う手書きの書簡を家族や友人に向けて綴り続けた。だから、その小さくとも隠しようのない筆致の変化をもたらした封筒を開けた時の夫の落胆といったら、おろしたての白いTシャツにこぼした油染みのように、容易に拭えるものではなかった。とはいえ、機器に頼らないが故に露呈したその生物的な変遷は、人類が辿った路をそのまま踏襲したのだから、八十歳を超えたエレンにとっては本望なのかもしれない。

 全世界を席巻した感染症の猛威が和らいで久しぶりに会ったエレンが、はっきりした目鼻立ちで小ぶりの顔を包む、粋としか喩えようのないベリーショートの髪を、それまでの駱駝色でなく銀鼠色で颯爽と現れたとき、私は一瞬言葉を失った。彼女の変貌ぶりを驚いたというよりも、年月の流れを、それを愉しげにさえ受け容れる彼女の潔さを、目の当たりにしたからだ。そしてやがて自分もそうありたいと、しみじみ希った。

#note #エッセイ #海外暮らし #ベルギー #ベルギーの森から

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