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中国語が段々わかって来た!! 外出外出旅行旅行!!1989年5月上海

前回の続き



2種類の通貨。外匯券と人民元


90年代前半までの中国は2種類の通貨がありました。
一般の中国人民が使う人民元(今もあります)と、
日本円や米ドル等の外貨を両替時に受け取る、
外匯券/兌換券と呼ばれる外国人用の通貨。
人民元から直接、外貨へ直接の両替は出来ません。

外匯券/兌換券と呼ばれる外国人用の通貨
最近お会いした方が、今もお持ちで
咄嗟に撮影しました

中国の人達が輸入品や高級品(主にお酒やタバコなど)を購入する時、
外国人用のデパート
「友誼商店」で購入の必要があるため、
また外国人が一般のお店で、普通の値段で買物をしたいため、
双方の利害が一致して「闇両替」がありました。
レートは大体、1.5倍。
当時の銀行での為替レートは1元=約40円でしたが、
闇両替で人民元に換えると、現金が1.5倍に増えた訳です。
闇両替はクチコミで広がった留学生御用達のお店の中の奥にある
隠し部屋で行われました。中々スリルがありました。
和平飯店近くなどの路上で、
外国人に高いレートで持ち掛ける人たちもいましたが、
ウイグルマジックと言われる詐欺なので、無視しました。

外国人用のデパート、友誼商店
兌換券(外匯券)で買物をしますが、
海外ブランドのタバコや洋酒目当てで
中国の人達も少数ながら買物に来ました。


1980-90年代、外国人向けカジュアル服が買えた、上海華亭路
チェンジマネー(闇両替)の店もありました

人民元で安く買い物をしたいけど、
外国人が使ってバレると気まずい感じに…。
幸い日本人は、中国では目立たない。
それでも中国語が下手だとバレてしまう。
さりげなく人民元で買物をするため、中国語のスキルが必要です。
兌換券で買い物をしても、人民元でお釣りが来ることもある訳ですが…。

当時の物価ですが、一般の中国人の給料は一万円以下、
バス代は、0.1-0.2元、和平飯店から学校までのタクシー代は10元超。
10元はかなりの大金という感覚でした。

もう一つの通貨?糧票って何?

https://baike.baidu.hk/item/%E7%B3%A7%E7%A5%A8/108072

↑糧票について、百度の解説

糧票と呼ばれた配給券

上海の街歩きを始めた頃、良くわからなかったシステム、
麺類や餃子などがある、大きめの国営のレストランでに入ろうとすると
断られました。
外国人侵入禁止なのかと思いきや、勝手が少し違う感じ?
後から、糧票が必要なお店だという事が分かりました。

一般中国人の給料が一万円以下だった時代、
食糧を安く買うための糧票と呼ばれる配給券を使うと
格安な価格で購入することが出来る(らしい)です。
お米やパンを買う場合も、糧票が必要な事が多く
自炊をする場合のお米は、寮の食堂や、友誼商店から購入しました。
割高ですが、糧票が不要なお店も割とあるので、
大きな問題ではなかったです。

大人気の女子大生、王さん


当時いた学校は、外国語大学という事もあり、
外国語を学ぶ中国人生徒と、外国人留学生の、相互学習
补导・補導」を行う学生が多かったので、私もお願いしました。
中国語を中国語で教える授業に疲れていたので、
日本語専攻学生による補習は有り難く、
中国や上海の事を気安く聞くことが出来る有難い存在でした。
少額ですが授業料を払い、兌換券で入る収入は
中国人学生にとっては、稼げるアルバイトだったと思います。
補導相手として、王さんという日本語専攻の女性が人気でした。
丁寧な日本語で、とても細やかな気遣いをする方でした。
忙しい王さんの代わりに来た方は、日本語に癖があり、
哈〜?!」と聞き直されて、ビックリしましたが
今思うとこちらの方が、中国の人と話している感じですね。

中国語が段々わかって来た!!  早速旅行旅行!!

5月に入り、学校の旅行で杭州&千島湖に行きました。
初めての中国鉄道体験。
旅行の為の追加料金は払う必要はなかったけど、
鉄道の席が硬座だったのは仕方ないかも。
ホテルの部屋はバスタブ付きで、
日本人留学生たちは大喜び。
久しぶりの湯船につかりました。
旅行中の食事は毎回、中華の大皿料理。
最初は豪華だと喜んでいましたが、回を重ねるごとに
料理の油の重さにリタイアをする人が続出。
旅行の後半、杭州市内に入った後は、
欧米出身の留学生たちは、西洋料理を食べるために
食事に出なくなりました。

この旅行で最も印象的だった風景は、
美しい杭州と美しい千島湖ではなく
中国の田舎の村を通る移動中のバスの風景
街道沿いの垢抜けない小さな美容室から見える、少年隊のポスター
日本で人気が高いけど、同時に中国でも影響がある事を知りました。


上海↔︎杭州・約200キロ、上海↔︎南京・約300キロ


学校の旅行の翌週末?は、2泊3日で南京に行きました。
学校の中では、「留学生寮で日本人と一緒にいても中国語は覚えない。
会話の上達は旅行に行くのが一番
」的な空気が流れていて、
勢いと好奇心で、初めての一人旅。

当時の中国旅行は、鉄道チケットを買うのが至難の業で
外国人窓口で外国人料金で買うと、至難さから回避出来ましたが、
行きは上海の中国旅行社の外国人用窓口で、
余裕を持った日程で購入することが出来ます。しかし片道のみ。
帰りの鉄道チケットは旅行先で買うことになりますが、
先ず旅先で、外国人窓口を探すのが大変でした。
案の定、希望日は買えず、初めての「沒有体験」。
宿泊先は、大学の留学生寮のゲストハウスを安く使えると言われましたが
ここも又、「沒有」。
途方に暮れていると、現地の中国人の学生さんが助けを頂き
別途ホテルに泊まることが出来ました。

当時の南京は、緑豊かな落ち着いた雰囲気の街でした。

↑80年代の南京を紹介したHPです。

学校手配の旅行と異なり、初めての一人旅行の不安か、
軟座の鉄道チケットを取りましたが、
往路は寝台車に複数に割り振られて、
軟座の様な余裕はなく、
復路はいかにも軟座な座席でしたが、
隣席の日本人商社マンの自慢と愚痴を延々と聞くハメに…。

深夜特急との出会い


自分の中の旅人への目覚めを感じるようになったのは、
留学生寮の中で回ってきて、初めて読んだ深夜特急の影響かも。
当時ハードカバー版の1・2巻が出た頃です。

深夜特急の冒頭シーンの香港及びマカオ編は、
当時中国に留学をしている人たちにとっては
親しみやすいエピソードだと思います。

中国に長く滞在する為に、留学ビザを取り、学割を使いながら
シルクロードや雲南省など長期の旅行に行く人が多い事を知りました。
中国語も覚えられて、一石二鳥。

私自身が元々、上海に長期滞在するための留学でしたが、
興味の輪が、上海から中国全体に広がって来ました。


参考資料。1989年5月、上海の天気



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