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香港永久居民の日本人。X(Twitter)で取りこぼしを書こうと思います。

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マガジン

  • 上海1989

    オールド上海オタクを募らせていたら、雑誌の懸賞に当選して、初上海旅行、 勢いついて翌年、上海に留学すると、天安門事件に巻き込まれてしまいました。

  • ボランティア@香港

    香港で参加しているボランティア活動について

  • 香港の禁区

    香港の禁区、沙頭角に行きました。

最近の記事

迷惘夜車、1989年秋

前回の続き 最初は口コミから 留学生活がある程度経過した頃、 現地で流行っている、中国語の曲が気になる様になりました。 1989年当時の音楽媒体、 日本はレコードからCDに移行する過渡期でしたが、 中国は、カセットテープ一択。 最初に覚えた中国語の曲は、留学生の中で流行っていたこの曲。 歌を覚えて、ギターで弾き語りをする友人もいました。 齊秦について当時は、中国の人なのか、 どこの人なのかすらも見当もつかず、 後から台湾の歌手だという事を知りました。 人気がありすぎ

    • 香港大手老舗フィットネスジムの倒産あれこれ

      香港大手老舗フィットネスジムの倒産 先週末からの香港の大ニュース 香港の老舗フィットネスジムの舒適堡(PHYSICAL)が倒産。 1986年創立との事で浮き沈みの激しい香港で 38年も続いていたそうです。 中国大陸でも幅広く展開しておりましたが、昨年既にクローズしたそうで。 下記の記事によると従業員の給与未払いや、 MPF積立金の滞納など、かなり悪質です。 給与未払いの後は、 会費の過払いの提訴が相次ぐと思われますが 次々とニュースが出ています。 訴訟金額は最低額1

      • 週末パリピしながら世界情勢を見る。1989年11月上海

        前回の続き 週末はパリピ? 9月からの学校は、6月までの学校とは違い、 他の学校のネットワークが多く、社交的な雰囲気を感じました。 自分の学校の日本人留学生は少なかったですが、 他の学校の学生達との交流もあり、 大学有志であちこちで行われました 週末パーティに参加しました。 以前の学校の時に時々行った、ホテルのディスコとは違い カジュアルな雰囲気の学生のパーティで、 こちらの方が楽しかったです。 日本人と欧州人学生達の音楽の好みは大体似ていて 80年代のユーロビート辺り

        • 巻き込まれてあちらこちら?1989年10月、上海→北京→青島

          前回の続き アフリカ人学生たちのボイコット 留学した学校は理工系大学のため、 本科で学ぶ多数派の学生は、 アフリカやアラブ諸国出身者が多く 留学生食堂のメニューは イスラム教徒向け(ハラル)仕様で、 中国なのに、豚肉抜き。 朝食はナンに似たパンケーキと紅茶、 昼食や夕食は牛肉やマトンによる 煮込み料理が多かったです。 餃子も豚肉ではなく、牛肉。 最初は面白かったですが、 一ヶ月過ぎると正直飽きて来ました。 そして、アフリカ出身の学生たちによる 待遇改善抗議活動が始まりま

        迷惘夜車、1989年秋

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        • 上海1989
          15本
        • ボランティア@香港
          2本
        • 香港の禁区
          5本

        記事

          留学生樓は放任主義?、1989年9月上海

          前回の続き 最初の格闘 半月の中国東北旅行から上海に戻ると、既に9月。 留学生楼(寮)は前学期からの学生、新しい学生などが入って来ました。 私が通された部屋は2人部屋。 旅行の疲れを癒すために、部屋で休みたかったのですが…。 少なくとも6月から、人が入らなかった部屋は 汚すぎる… なので人が住める状態にすべく、格闘の日々を暫く過ごしました。 6月までいた学校の施設は質素でしたが、人の手が入っていましたが ここの学校は「自分の事は自分でやりなさい」と言う様子。 実は寮の費

          留学生樓は放任主義?、1989年9月上海

          1989年夏、ラストエンペラー追跡旅行記

          前回の続き 丹東から瀋陽へ 国境の街、丹東から北朝鮮を眺め、達成感を得ましたが、 この旅行の目的は一応、 映画ラストエンペラー・追跡旅行です。 丹東から瀋陽は鉄道で行きました。 瀋陽は旧奉天。満州国の面影を探す旅で、いきなり駅舎を見て、 おっ‼︎ 東京駅‼︎ と感じました。 事情も良く分かっていないまま、丹東から同じ列車で来た、 瀋陽在住中国人男性2人組にホテルを紹介して頂きました。 凄く高い値段ではないですが、ビジネスホテルという雰囲気。 1989年当時の印象で「大

          1989年夏、ラストエンペラー追跡旅行記

          1989年夏のスロウ・ボート

          前回の続き 1989年8月。静かな上海 1989年の上海留学、 天安門事件に巻き込まれて、 6月半ばに一旦帰国ましたが、 8月半ばに再び上海に戻りました。 新しい学校は9月からですが、 授業開始前の半月、旅行に行きました。 「和平飯店が今なら一泊50ドルで泊まれるよ! 一緒に泊まらない?」 6月までの学校のルームメイトからありがたいニュースを聞き、 成田発の同じ便で上海に入りました。 観光客が消えたらしく、破格の値段で泊まる事が出来ました。 憧れの和平飯店はとても静か

          1989年夏のスロウ・ボート

          1954年から眺めた2024年。そして70年後?

          最近YouTubeのオススメに登場した動画 東海道新幹線開通の1964年から遡って10年前の1954年、 今から何と70年前です。 東京から大阪まで運行の「特急つばめ」のドキュメンタリー短編映画。 新幹線線開通以前の特急列車は、想像もつきませんでしたが、 当時は1日がかりの大移動でした。 電化されていたのは、名古屋まで。 名古屋から先の非電化区間は、蒸気機関車の牽引。 そして、印象的なのは、乗客の品の良さ。 皆さん正装で乗車。 食堂車に花、キャビンアテンダントの様な、颯爽

          1954年から眺めた2024年。そして70年後?

          キラキラしていない深圳ですが…

          Amazonプライム・ビデオで公開のドキュメンタリー映画 ずっと前から公開中ですが、最近やっと見ました。 日本語公式サイトもありました。 世界で一番ゴッホを描いた趙小勇氏 映画は10年位前の、深圳大芬油絵村が舞台。 当時既に20年以上、ゴッホの複製画を描き続けた趙小勇氏、 オランダの画商の招待を受けて、欧州旅行へ。 初めて見た本物のゴッホと、自分の複製画が売られている 現場の現実を知った後の葛藤、 その後の決断と変化を追いかけたドキュメンタリー映画作品。 趙小勇氏は湖

          キラキラしていない深圳ですが…

          夏至の合同運動会

          先月の週末、日本人幼稚園と、難民家庭の子供達との 合同運動会があり、お手伝いに行きました。 定期的にこちらのボランティア活動に参加しております。 5月のボランティア参加時に 「来月運動会を行うので、参加希望の場合は 支援団体に連絡してください」と伝えてとの連絡。 運動会は英語で”Sports Day” だそうです。 この日の物資支給訪問先は、アフリカ某国出身家庭。 目をキラキラさせながら、参加したい!! の 10歳位の女の子。 参加してくれると良いなぁ...。 そして運動

          夏至の合同運動会

          スペースに出演しました

          先週末、石井大智@Daichi_Ishii さんの X (Twitter)スペースに音声出演しました。 録音を聴くことができます。 内容については、noteで書いております、 1989年上海日記についての 色々です。 途中から、同時期に北京に留学された けろっと@kerotto さんもお話に参加されました。 当時の北京の生々しい状況を、今回初めて知ることができました。 六四体験をネットで語る事について、 周囲の方々からご心配をおかけしましたが、 「中国の事よりも、在留

          スペースに出演しました

          何が起こったのかを知るために。1989年6月、上海

          前回の続き 街で貼られる数々のニュース 交通が回復して来たので、街歩きが出来る様になりました。 バスに乗って驚いたのは、車内のあちこちに貼られた、 速報版のニュースを埋める壁新聞。 「BBCから聞いた速報」「VOAから聞いた速報」等。 中国政府の報道よりも、海外のニュースを信じる人達の方が多い感じ。 当時のNHKニュース番組中に、 中国政府と、海外媒体との報道合戦の解説があります。 国際ラジオのプロパガンダ競争 上記の通り、当時の中国の人達は、政府の放送よりも、 西

          何が起こったのかを知るために。1989年6月、上海

          突然終っても…

          今朝 (6/12) FBを開くと、友人の誕生日の通知。 少し躊躇しながら、お祝いのメッセージ。 躊躇をした理由は、既に現世にいない友人のため。 2年前に突然の原因不明の病で入院して 3ヶ月の闘病生活の末に惜しくも他界、 享年60歳過ぎで突然終わった人生でした。 博識な旅行ライターの方で、FBの日記は 無料で読ませていただくのが、申し訳なく思った程。 しかし、コロナ禍の最中の発病。そして入院と闘病生活。 パンデミックが明けたら、 自由に旅行をしたかったのでは?と 悔しい思いが

          突然終っても…

          兌換券が無いので両替が出来ません。航空券が買えません。1989年6月、上海

          前回の続き とりあえず生存報告 欧米先進諸国の学生達が一瞬で去り、 学校に取り残された留学生は、 日本人と北朝鮮人のみ…。 他の学校も日本人以外で残ったのは、 東側諸国や社会主義体制の国及び、独裁体制の国々…。 この状態で授業が未だ行われていたのか、 正直覚えていないです。 とりあえずすべき事は? 留学生寮の事務室の受付に行き、 日本への国際電話を申込み、 順々に電話連絡。 この時の雰囲気は流石に、 慌ただしかったと記憶しています。 家族や日本の所属先の学校、 留学斡旋

          兌換券が無いので両替が出来ません。航空券が買えません。1989年6月、上海

          2時間後にここを出て空港に行く。君も香港に行かないか?1989年6月、上海

          前回の続き 重い週明け 週末遊びすぎた後の、静かな月曜日。 街が止まったかの如く、とても静か。 そして空気が重い。 学校に行き、初めて知った北京のニュース。 何を言っているのか、全く理解出来ず…。 酷すぎて信じられない事ばかり。 自分の常識から離れすぎて、 理解するまで時間がかかりましたが、 この時から、周囲が激しく変わって行きました。 翌日午後、思い切って学校の外に出てみましたが、 バスが道幅を塞ぎ、バリケードの様に積み重なっていました。 歩けないので、この日は学

          2時間後にここを出て空港に行く。君も香港に行かないか?1989年6月、上海

          1989年6月3日土曜日。上海錦江飯店

          前回の続き 憧れの錦江飯店 留学先の学校は、上海の北東、 戦前は「日本人租界」と呼ばれた、 日本人が多く住んでいた虹口地域の近くの、 趣き深い地域で、気に入っていました。 留学中の外出先範囲は、 学校からの路線バスで直接行ける、 外灘から和平飯店や友誼商店周辺までが多く、 更に先、上海の西、路線バスを乗り継いで行く 旧フランス租界に在り、 数多くの国際的要人が滞在歴を誇る、 重鎮的な存在の錦江飯店は、 畏れ多さを感じました。 当時は、近くに高層ビルの系列ホテル ジンジ

          1989年6月3日土曜日。上海錦江飯店