客観性と当事者性の葛藤―書籍『VTuberの哲学』感想
書籍『VTuberの哲学』(山野弘樹、春秋社)を読みました。以下はその感想です。
総評
まず注意しなければならないのは、本書は「Vtuberとは“本当は”どういうものか」を示すものではなく、著者の経験に基づく直観が先にあり、それを実際の事例で裏付けつつ、構成論的に言語化するために先行研究で導入された概念やモデルを援用してくる構造である、ということです。構成論的に、とは大まかに言って、「これこれの要素から成り立っているとすれば、見えている挙動を説明できる」という形で細分化することです。そのため、日頃からVTuberに慣れ親しんでいる読者にとっては、VTuberに関して何か非自明な真実がわかるという本ではないでしょう(別の界隈の事情を知ることはできるかもしれませんが)。むしろ、具体的な経験を抽象的な図式へと整理・分類することが好きな読者(私を含む)には知的刺激があると思います。分析哲学とはそういうものなのかもしれません。専門家による仕事とそれ以外とを分けるものの一つは、先行研究で示された図式を正確に理解し、それと自分の論との繋がりを論理的に飛躍なく記述する技術なのでしょう。
また、VTuberや美少女キャラクター実践が道徳的非難に晒されたとき(例えば2018年のキズナアイノーベル賞解説動画騒動や2021年の戸定梨香交通安全動画騒動のような)、「批判者はVTuberへの事実認識からして間違っている、なぜなら『VTuberの哲学』にこう書いてあるからだ」と武器に使えるようなものでもありません。この点は学術書としては妥当なのですが、本書にはもう一つ、当事者研究としての側面が隠しきれずあり、そのために中立性を徹底できていない部分があります。
VTuber文化当事者としての著者の立場を最も顕著に示しているのが、全編を通してVTuberの名前の後に「さん」という敬称をつける表記法です。「はじめに」では、これが一般的な学術文書の慣習から外れることに言及しながらも、「VTuberが人格的存在者であることを記述のレベルで明示するため」(圏点は原文ママ)だと説明されています。私は、この「記述のレベルで」という説明は「印象操作」の体のよい言い換えだとみなされても仕方ないと考えます。VTuberが人格的存在者であるかどうかは、鑑賞実践の分析という哲学的・美学的側面からも、誹謗中傷問題のような政治的側面からも大切な問題だと私は思いますので、内容のレベルで論証されるか、それができないならできないものと明示した上で「鑑賞者の直観」として導入されるべきことでしょう。
当事者がこうした研究をすることは合理的であり、妨げられないことだと私は思います。新興の文化であるVTuberの場合、深くコミットしている当事者でなければそもそも仮説の出発点であり検証手段でもある観察事実(ここではVTuberのコンテンツ)を集められないからです。また、特にVTuberを含む現代のポピュラー文化では、倫理的瑕疵を許さない風潮によって、批判が即座に文化の存在そのものへの苛烈な攻撃に繋がってしまう(繋がってしまいかねない、ではなく、繋がる)ために、研究者はその研究の内容以上に「文化を擁護するという姿勢を大前提としているか」という観点から当事者コミュニティによって厳しく審判されるからです。このことは、人間の欲望を取り扱うポピュラー文化への研究とそれに基づく政策が、これまで当事者の体験の機微を捉えない不正確で、それゆえ抑圧的なものだったこと、そして同時に当事者による言語化と発信が十分ではなかったことの表れです。しかしその上でも中立的な形式や手続きを守り続けなければ、かえって当事者の倫理的瑕疵として攻撃される隙となると私は考えています。
第一章:循環、先行研究、限界、機能
著者が編著者として参加している『VTuber学』(岩波書店)について、私は先日感想を書きましたが、この『VTuber学』の第III部で議論されている「VTuberとは配信者のことかキャラクターのことか」という問いへの著者の立場が述べられているのがこの第一章です(つまり、第二章以降は大部分『VTuber学』に書かれていないことです)。
循環参照の所在をはっきりさせる
第一章でVTuberの地位機能宣言の定式化として掲げられている以下の文章について、私は、現代の情報空間で私たちの前に現れてくるものほとんどに共通する構造を持っていると思います。
これは循環論法であり、たとえ「VTuberとして活動状態にある」や「VTuber文化」や「VTuberとしての機能」の内実を細かくパラフレーズしたところで、「宣言する」がある限りVTuberをその外から定義したことにはならないはずです。しかし、実際のところこのようにしか定義されない物事は多く、例えば「オタク」や「ライトノベル」や「美少女」といった概念もそうです。それまでにカテゴリに含まれていたものとの何らかの連続性が認められることのみによって、「活動状態」も「文化」も「地位」も「機能」も定義されているように私には見えます(例えば、私たちは美少年を「美少女」に含まれるものとして宣言することができます)。
次に問題になるのは、ある配信者にどのような側面で既存のVTuberとの連続性があればVTuberと呼ばれうるかということですが、ここで著者が注目するのは「VTuberとしてのアイデンティティを保持している」という側面です。これもまた循環論法ですが(アイデンティティとは既存のカテゴリに自分自身をカテゴライズする思考そのものなので)、もはやこのような循環論法は生きた情報の流れを相手にするときには原理的に避けられないということをこそここでの学びとするべきでしょう。このような循環参照、あるいは再帰性とも呼ぶべき性質は、複雑で創造的な情報ネットワーク(生命や知性など)が備えるべき、また必ず備えることになる条件だと私は考えています。
モデルの導入による循環の脱却
「VTuberとしてのアイデンティティ」というときの「VTuber」には二つの意味がありえます。つまり、「自分がVTuberの一人であるというアイデンティティ」という意味と、「自分が固有名Aで表される存在者であるというアイデンティティ、言い添えるならAはVTuberの一人である」という意味です。著者はどちらかといえば後者の意味を選んでいるように見えます。そして、AがVTuberの一人であるといえるための条件は分かっていません。
しかし、Aとしてのアイデンティティを構成するものとして著者が挙げている身体的・倫理的・物語的アイデンティティの中で、身体的アイデンティティについての記述は循環的でない形をしています。つまり、モデルという新しい要素を導入して、「獲得された身体的アイデンティティがVTuberとしての身体的アイデンティティであるといえるためには、それがモデルとの身体的な連動を通して獲得されたものでなければならない」と要請しているということです。ここでモデルを導入したのは全くの鑑賞者の直観からで(第二章註31)、循環的な「構造」だった地位機能宣言が具体的な現実へと落とし込まれていく過程はこの「モデルの存在を前提とすること」から始まります。この地点からVTuberはようやく、声優ラジオやボーカロイドとは異なるカテゴリとして論じられ始めることになるわけです。
ただし本書は、声がモデルに含まれる可能性について言及していません。つまり、自分の身体と連動することが必ずしも自明ではない(それゆえに、連動すれば新たな身体的アイデンティティが獲得される)ものをモデルと呼ぶなら、ボイスチャンジャ―を使うVTuberの声もそれに含まれるのではないかということです。特にバ美肉VTuberやメタバースユーザーにとって、声はモデル以上に身体的アイデンティティを左右するものです。このことは第三章の感想に少しだけ関係します。
一旦整理すれば、モデルとの身体的な連動は「AはVTuberの一人である」といえるための条件をなし、それを通じて獲得された身体的アイデンティティと、残る倫理的アイデンティティと物語的アイデンティティの三つが「自分はAである」というアイデンティティを形成する、という構造です。
他のVTuber論との接続
VTuberないしバーチャル存在の構成を言語化しようとする議論には、このように要素の数を三つとするものが散見されます。代表的なものは2018年の難波優輝さんの「パーソン・ペルソナ・キャラクタ」(『ユリイカ』2018年7月号、いわゆる「三層理論」)ですが、私の知る限りでは他にヒグチさんの「オブジェクト層・ペルソナ層・シャドウ層」(『青春ヘラ』Vol.7、いわゆる「IEB滲出を伴う三層理論」)や、バーチャル美少女ねむさんの(メタバースにおける)「アイデンティティのコスプレ・コミュニケーションのコスプレ・経済のコスプレ」(『メタバース進化論』、いわゆる「人類美少女計画2.0」)などがあります。VTuber文化の比較的早い時期に発表された三層理論がその後の界隈に与えた影響はあるでしょうが、オカルティストである私は、人間の思考の枠組み自体が3という数をもとにデザインされているという考え方をします。
『VTuberの哲学』はこれらの論者の議論を参照しておらず、在野を含めたVTuber論の中での自説の位置づけを明らかにしていないのですが、ここでは私なりに各説の関係を整理しておきたいと思います。
まず、IEB滲出を伴う三層理論がどういう意味で三層理論の拡張なのかといえば、三層理論のキャラクタをオブジェクト層とペルソナ層に分割し、パーソンをAIなどの非人間に拡張してシャドウ層とし、メディアペルソナがフロイト内面に滲出するIEBにあたる、と私は理解しています(IEB滲出を伴う三層理論では精神分析的な意味での「無意識」と認知科学的な意味での「無意識」が区別されていませんが、鑑賞者から見たIEBを扱う場合にはこの点は問題になりません)。これらはラカンにおける想像界(オブジェクト層)・象徴界(ペルソナ層)・現実界(シャドウ層)・対象a(フロイト内面)にも対応させられるでしょう。
『VTuberの哲学』の三つのアイデンティティは、三層理論のそれぞれに対応するというより、三層理論におけるペルソナの構成要素、およびそれらが形成されてくる仕方にあたります。時間とともに形成されていく物語的アイデンティティはIEBに相当するといえるでしょう。そして、三つのアイデンティティは全て人類美少女計画2.0でいうアイデンティティのコスプレを引き起こします(身体的→アバターと声、倫理的→名前、物語的→それらの強化)。コミュニケーションのコスプレと経済のコスプレは、三つのアイデンティティに支えられているというより、バーチャル存在としての三つのアイデンティティが「元からあったものとは別に獲得されうる」という事態によって支えられています。獲得された後の三つのアイデンティティとコスプレとの関係は、名義や実績が取引を円滑にするといったような、物理現実におけるものとほとんど同じです。
ただし、人類美少女計画2.0は「移動可能な空間がある」「全員がバーチャル存在である」という(VTuberにとっては)特殊な状況を前提としていることには当然注意が必要です。この状況は本書第五章第三節で言及されているような、鑑賞者のアイデンティティもまた変容していくという事態の先にあるものです。
本書における「自己」観
さて、アイデンティティという言葉の理解に関わるところですが、倫理的アイデンティティの説明のところで著者は、「他者に約束し続けることを通して初めて「私」が(他ならぬ)「私」であることを維持しうるという洞察は、日常の場面を考えても理解可能なものである」と述べた上で、そこに註51を付しています。註51の内容はこうです。
私は、この記述は註ではなく本文中にあるべきだと考えます。これはリクールの議論に立脚することの正当性に留保をつけるものであり、それ以上に、「宣言することによって初めて存在する」という在り方は現代の全てのバーチャル存在(VTuber、ボーカロイド、擬人化キャラクターetc…)にとって極めて核心的な性質であるため、本書の大前提として読者に共有されていなければならないと思うからです。本文に書くならハイデガーは出さないにしても、VTuberを語る際には絶えず宣言され維持される必要のあるものとしての「自己」を考えなければならないのだということは、より詳しく論証されるか、キャラクター論の先行研究を引いて強調されるべきだと思います。
VTuberの機能についての批判について
VTuberの地位機能宣言について、難波優輝さんは「「VTuberとしての機能」の内実が明らかでない」「アイデンティティを保持しながら活動状態にあること自体は機能とは呼び難い」と批判しています。
このような批判が出る背景には、恐らく、VTuberの地位機能宣言の中にVTuber自身の視点と鑑賞者の視点が混在していることがあるのだと思います。三つのアイデンティティは「VTuberとして活動状態にある」のパラフレーズでしたが、これはVTuber自身から見た記述です。VTuber自身から見れば、活動状態にあること自体が普通の意味での機能となることは不思議ではありません。対して「VTuberとしての機能」は、特に難波さんの指摘するようにサール的な社会存在論の枠組みにおける機能が想定されている以上、鑑賞者をはじめとするVTuber本人以外の人間集団の側から要請され規定される機能であるはずです。このようにVTuber自身の視点と鑑賞者の視点が混在する現象は、特に図式的な整理を試みるVTuber論には大変よくみられることです。
私は、鑑賞者たちがVTuberたちに求める社会的な機能(ここには「パフォーマンスで楽しませてくれる機能」などは含まれません)はあるのではないかと思います。例えば「新しいアイデンティティを獲得して新しい活動を始められる社会を作るために、その前例を増やす機能」「美少女キャラクターとそれへ向ける欲望がより受容される社会を作るために、それを肯定するメッセージを発信する機能」などです。無自覚にであれ、このような機能を期待してVTuberをVTuberとして持ち上げている人たちは多いのではないでしょうか。
私のこの考えは、性表現(ポルノグラフィ)と政治との関係から来ています。私は個人的に表現の自由(憲法に規定された検閲の禁止だけでなく、自由な製作・流通・閲覧・論評全般)に関心があるのですが、性表現や暴力表現はデフォルトで政治的・社会的に抑圧されているために、その裏返しとして「そこに存在すること自体が、そこに存在してもよいとされるべきだという政治的・社会的メッセージとなる」という性質を帯びます。そして、規制や道徳的非難の文脈では、美少女も性表現の一種として扱われます。そのため私は、美少女が存在すること自体が「美少女を存在させる機能」でもあると考えます。
ところで、アイデンティティを保持しながら活動状態にあること自体は確かに一般のVTuberたちについて鑑賞者が認める社会的機能とは呼び難いですが、これ自体を機能としたVTuberがただ二人います。それはキズナアイさんとバーチャル美少女ねむさんです。ただしこの二人の機能も、上で述べたように「バーチャル美少女が存在できる社会の実現を近づける機能」とパラフレーズすることもできるでしょう。
難波さんは「アイデンティティを保持しながら活動状態にある」こと自体が機能となる唯一の存在が天皇であると述べていますが、これには私も同感です。日本国の象徴としての天皇は、神に次いで世界最大のバーチャル存在です。VTuberやボーカロイドやバ美肉が日本で受容された背景には人形浄瑠璃や枯山水などの見立ての伝統があるとよく言われますが、その見立ての技法や複数のリアリティを併存させる思考法を強固に、広く、強制力を伴って日本人に浸透させたのが、実は戦後の天皇の在り方だったのではないかと私は考えています。
第二章:シームレスな鑑賞と自分で縫う鑑賞
第一章で、循環論法を断ち切る最初の契機としてモデルが導入された以上、この第二章で「身体的アイデンティティが欠けたVTuber」の検討に移るのは自然なことです。
本記事中の総評で、「著者の経験に基づく直観が先にあり、それを実際の事例で裏付けつつ、構成論的に言語化するために先行研究で導入された概念やモデルを援用してくる構造である」と述べましたが、そのことが最も顕著に表れているのがこの第二章だと思います。つまり、現代哲学におけるアリストテレスの位置づけに明るくない読者に、「わざわざそんな古い哲学者を引っ張ってくる正当性がどこにあるのか?」という疑念を起こさせるということです。この点は、『VTuber学』の第13章にもあったように、アリストテレスの説が正しいかどうかは関係なく、説明のための図式として便利だから使う、それでいいのだ、という割り切りが必要かもしれません(理系のバックグラウンドを持つ読者にはなかなか馴染めない姿勢だと思います)。
配信者がいなければVTuberも存在しえないという事実を、VTuberを配信者に還元するのではなく「配信者は可能態としてのVTuberの一つ」として取り扱うのは、配信者やモデルがなぜVTuberの構成要素となる資格を持つのかという部分に触れている点で、『VTuber学』第12章の松本大輝さんの「技術的所産」による説明にごく近いものだと思います。しかし可能態と現実態による説明は、「VTuberの構成要素として配信者とモデルがある」というのとも少し違い、配信者はVTuberの不完全な形なのではなく単独でもVTuberを名乗る資格があるという意味合いを含むように思われ、後述するようにバ美肉の配信者をモデル抜きでもかわいいとみなしたいような場合に便利です。
ただし、註5の「一度VTuberとしての現実化が生起した後に、あくまでその現実態と連関する形で可能態としての身分も定まるのである」という注意書きは、誤解されやすい点であり時間経過のダイナミズムに言及する重要な部分でもあるので、註ではなく本文中にあるべきだと思います。
さて、それに続くのは、「モデルと連動していないときの配信者も、倫理的アイデンティティを保持していれば「シームレスな鑑賞」によりVTuberとみなすことができる」という主張です。私はこの整理に大枠で同意しますし、いわゆるリアルアバターに対してVTuberと同じように「かわいい」と呼ぶ実践をとても重く見るものです。そして「VTuberとして活動状態にある」の内実を三つのアイデンティティに分けたことによって、入れ替わり事例を「制度的存在者の水準では新規の二人のVTuberが成立するものであり、シームレスな鑑賞の水準では倫理的アイデンティティを保持した配信者同士が入れ替わっているものである」というように異なる水準の並存として説明できるようになるのは見事なものです(異なる水準がどのようにして並存できるのか、という議論は別にありうると思いますが)。
しかし、「シームレスな鑑賞」という名付けについては私は少し違う直観を持っています。私は、むしろ「自分で縫う鑑賞」、つまりモデルとの連動はおろか倫理的アイデンティティさえも維持されていない(され難いように思われる)状態の配信者を、モデルと同じようにかわいいと強引に宣言してしまうことがしばしばあるからです。例えば以下のような状況です。
これはバ美肉に親しんでいるかどうかで感じ方の違うところかもしれません。バ美肉は「キャラクターか、配信者か」というシームに加え、「かわいいか、かわいくないか」(言い換えれば「欲望の対象になるか、ならないか」)というシームをも越えなければならず、しかも技術的には伝統的な女性らしいかわいさを完全には再現できないことも多いため、鑑賞者の側にも「それでもこれをかわいいとみなすのだ」という強いモチベーションが必要だからです。これは前の節で述べた「美少女の存在自体が政治的メッセージとなる」という事態にどれだけ自覚的であるかにも関わるでしょう。また、リアルアバターやその写真と接することの珍しくないメタバースユーザーを念頭に置くかどうかでも感じ方は違うはずです。
第三章:異なる倫理的アイデンティティ間の経験の移行の問題
そういうわけで、本書第三章でも遂行的発話に言及し、VTuberの発言やプロフィール文に「そこに宣言されているような在り様を自分のアイデンティティとして引き受ける」という性質がありうると主張しています。これは、VTuber本人の側から見れば「宣言することでそのように存在する」ということであり、鑑賞者の側から見れば「生き様としてそのようであるという意味において、フィクションではなく現実に真として解釈するべきである」ということです。バ美肉VTuberが「美少女です」と言えば美少女として扱うべき、という慣習が成立しているということです。
ただし、その宣言や慣習に反して「あなたは○○ではない」と発言することが、鑑賞の約束事を破るという観点、VTuberの人格や在り方を否定するという観点、コンテンツを適切に鑑賞できなくなるという観点から悪いというのは、真理の探究とも研究倫理とも関係のない道徳にすぎないものです。総評で述べたように、このようなジャンルの研究で界隈のルールや道徳から逃れることはもはやできないのですが、議論のどこでそうしたものが持ち込まれているかということは常に意識しておきたいと私は思います。
現実世界における配信者の体験談をVTuberのものとして解釈することについて、発話行為を通じたシームレスな経験の移行によってVTuberが配信者と同じ経験を持つことが制度的事実として成立する、という説明は全く同意できるものです。それに続く「配信者の現実として真」「制度的事実として真」「フィクショナルに真」の区別も十分明晰だと思います。
ただし、このとき「シームレスな経験の移行」を行っているのがVTuberなのか鑑賞者なのかということはもう少し明確になっていた方がいいと思います。まず配信者によってシームレスに経験を移行させようとする意図が提示され、そのとき配信者にVTuberとしての倫理的アイデンティティが保持されていれば、鑑賞者はシームレスな鑑賞を行うことができ、その結果シームレスな経験の移行が承認されてVTuberの経験が制度的事実として成立する、という流れだと思います。
そして、次に議論されるデビュー前の体験談の取り扱いも、私にとって興味深いものです。私自身の経験に照らして、配信者に相当するもの(私はVTuberを名乗っていないので「相当するもの」とします)としての倫理的アイデンティティを保持しているときの経験の記憶を語ることは、VTuberに相当するものとしての倫理的・物語的アイデンティティを脅かすもののように感じられるからです。デビュー前問題はこれの最も分かりやすい例です。
本書ではこの問題を解決するのに、デビュー前の配信者はデビュー後の配信者の可能態であり、かつ配信者としての倫理的アイデンティティを保持しているので、デビュー後の配信者へとシームレスに経験を移行することができる、という道筋をとっています。これ自体は納得できるものです。しかし、配信者はデビュー後であっても常にVTuberとしての倫理的アイデンティティを保持しているわけではなく、保持していないときの経験が保持しているときの経験として移行される仕組みは本書の図式では説明できません。そして、この問題は鑑賞者からは通常見えず、配信者の側で起こるものです。
直観的には、過去の自分は今の自分の可能態だから過去の記憶を今の自分のものにしていい、という考え方はしていないように思われます。むしろ記憶というもの自体が、今の自分に帰属するようなあり方でしかありえない(出来事を想起するのはいつも今の自分だから)、というところから出発した方が、配信者自身の認識の仕方を説明するのには見通しがいいでしょう。しかし、そうして想起した記憶にはなお、「どういう倫理的アイデンティティを保持しているときの経験か」という情報が付属しています。違う倫理的アイデンティティに属する経験はシームレスな経験の移行の対象になりません。私自身、配信者に相当するものの経験をVTuberに相当するものの経験としてシームレスに移行することにはかなりの抵抗があります(逆はもっとあります)。それでも現に移行が起こるとすれば、「記憶を想起している間はその記憶に紐づく倫理的アイデンティティを保持するが、その時間が十分短ければ配信などに目立った影響を与えず、その間に身体をハックして発話のキューを出し、声に紐づいた身体的アイデンティティに誘発されてVTuberとしての倫理的アイデンティティを取り戻したときには発話が行われてしまっているのでVTuberのものとして引き受けざるをえない」という、ややアクロバティックな説明が考えられます。しかしどこかで身体のようなハードウェア層を持ち出さなければ説明できないことだとも感じます。
(2024.10.03 05:32JST追記)VTuberの側での「シームレスな経験の譲渡」というものもあるように思われます。その行為をした瞬間には配信者(中の人)としての倫理的アイデンティティを保持していたことを歴史的事実として認めるが、その行為をした主体が自分であると称することができるのはVTuberとしての倫理的アイデンティティを保持しているときだけ、という心理状態を作り出すことです。恐らく倫理的アイデンティティと行為の対外的な名義(例えばアカウント名)とがずれている場合に、行為をした瞬間に保持されていた倫理的アイデンティティを「代理人」のようにみなすことによってそれが起こるのでしょう。この記事を投稿した瞬間にそのようなことを思いました。
第四章:メタファーとしての二次元
第四章第二節の終わりまで、この章がなぜ二次元/三次元性を問題にしているのかあまりはっきりと分からなかったのですが、第三節に至って、ゲーム実況の分析のためだったと分かります。それなら、空間に移動できる奥行きがあるかどうかといった幾何学的な二次元/三次元性を問題にすることは納得できます。
しかし、引用されているキズナアイさんの自己紹介の台詞にある「二次元」という言葉は、単に平面的であるという意味ではなく、「二十一世紀日本のポップカルチャーにおけるキャラクターデザインとキャラクター受容の様式に連なるものとして位置づけられている」という意味でしょう。この台詞の文脈からは、「VTuberとはいかなる意味で二次元的な存在者か?」という問いへの答えも、既にこれで尽きているように思われます。ここで「二次元」という言葉は、「二十一世紀日本の~位置づけられている」のメタファーであり、それが二次元という言葉で表されているのは、二十一世紀日本(以下略)に支配的だった漫画やイラストが平面のメディアであったことからのメトニミーです(ここで、メトニミーやメタファーという言葉の使い方は松浦優「メタファーとしての美少女」(『現代思想』2022年9月号)に依っています)。
二次元/三次元性を純粋に幾何学的に解釈する本書の視点に戻れば、この章の主張は次のように整理できるでしょう。VTuberは表象媒体のレベルにおいては二次元的ですが、表象内容のレベルにおいては三次元的であり、表象様式のレベルにおいては、画面の中で表象体をレイヤーのように重ねることでメイクビリーブの実践をしやすくしている場合には二次元的、VRで鑑賞者がライブの臨場感を得たり会いに行ったりできる場合には三次元的です。そしてゲーム実況の面白さは主に二次元的な性質によってメイクビリーブの実践、言い換えればフィクショナルな原理の追求ができることにある、と私は理解しました。
第五章:巻末エッセイ
第五章で、VTuberが生きた芸術作品かどうかを問うことの動機ははっきりしません。ゲーム実況は現にVTuberの配信の一大ジャンルとしてあってそう呼ばれているものですが、芸術かどうかは「個々人がそう呼びたいかどうか」の問題にすぎないと思われるからです。芸術と呼ぶことによってどういう文脈では何が起こるのか、という点を明らかにしてから、そこに動機を求めるべきだと思います。難波優輝さんも前掲の記事でこの点を批判しています。
例えば松永伸司「ビデオゲームは芸術か?」(『カリスタ』Vol.19)では、「ビデオゲームがメタ批評としての美学の対象としてふさわしいかどうか」という意味において芸術かどうかを問うとしています。また芸術であるかどうかは政府による経済的・法的な支援にも関わり、例えばバーチャル美少女ねむさんが2020年に文化庁の「文化芸術活動の継続支援事業」の補助金の交付を受けたことを引いてその是非を議論してもいいでしょう。しかし、こと政府による認定に対しては、美学や哲学の方面からの芸術の定義が何か影響を及ぼせるとは私には思えません。例えばストリップは本書の定義からすれば芸術だと私は思いますが、しばしば公然わいせつ罪の拡大解釈により摘発されてきました。
第五章1.3節以降は先行研究の参照や論証のないエッセイのような様子を帯びてきますが、本の最後のこのくらいの分量であれば、いいのかもしれません。
第五章第三節「生きた芸術作品」では、鑑賞者の側の倫理的・物語的アイデンティティの変容によって鑑賞体験を説明するという点は第一章の内容からの筋道が通っていますが、これだけの分量で片付けるには惜しい主題です。これで丸々一章使うような充実した議論が読みたいと思います。鑑賞者の体験の中でも情動的な面を言語化することは美少女への欲望を擁護するために重要ですし、見る者と見られる者のアイデンティティの相互作用はメタバースのような全員がバーチャル存在である世界で切実になる問題だからです。
〈以上〉