ヘンデル:歌劇《リナルド》より 私を泣かせてください
六月の綺麗な風の吹くことよ 子規
札幌に住んでいた頃、6月になるとライラックが咲いた。関東育ちの私は、この薄紫の小花が、初夏の札幌のあちこちに咲くことを知らなくて、近くを通るたびに特別にいい香りがすることに驚いた。どこまでも広がる青空とライラック。北海道に梅雨はなく、6月の札幌は神に祝福されたかのような明るさだった。
そもそも、どこにいても初夏の風は気持ちがいい。薫風とは言い得て妙だなと思う。お隣りの家のいちょうの木もたくさんの葉を茂らせて、仕事部屋の2階の窓を開ければ手が届くまでになった。晴れた朝、窓辺から風に揺れる青葉をぼんやり眺めることほど心安らぐことはない。
窓を開けたまま仕事をしていると、外の色々な音が聞こえていくる。お隣りに植木屋さんがきて、散歩中の犬が吠え、郵便局のバイクが通り過ぎる。窓を開けるとは、心を開くとなんらかの関係があるのだろうか。なんだか機嫌がよくなり、どんどんメールを開いて、じゃんじゃん返信していたら、クリックしたリンクから朗々とヘンデル のアリア「私を泣かせてください」がはじまった。十字軍を舞台にしたヘンデル の歌劇「リナルド」の有名なアリアで、捕らえられたアルミレーナ姫が「泣かせてください、無慈悲な運命に」と歌う。明るい部屋に静かにひろがったアリアは、嘆いているのに、超然としているような、何かを決めてしまったような、澄んだ湖面のような明るさを感じた。
静かな時間とは、音がしないということではなくて、頭の中で誰の声もしない、自分の声も他の誰の声もしないということ。綺麗な風に吹かれているとき、緑を見ているとき、心はとても静かだ。(なので、風に吹かれている緑を見るときは、特別に静かだ。)
静かにゆくものはすこやかに行く
健やかに行くものは遠くまで行く
茨木のり子
「ここでCDを流していると、お隣りから、今の曲は何ですかーって、下から声がかかるのよ」と昔の大家さんが言っていたことを思い出し、この曲もいい曲だから、お隣りさんは気に入ってくれるかもしれない。少し大きめなボリュームのまま、しばらくの間、聴いていた。
映画「カストラート」 ヘンデル 歌劇《リナルド》より 「私を泣かせてください」
「私を泣かせてください」はたくさんの人が歌っているので、どれを選んだらよいか悩みましたが、現代の華やかなソプラノ歌手ではなく、バロックの時代の空気を含む映画「カストラート(farinelli)」を選んでみました。
カストラート、去勢された男性歌手の声は現存しないので、映画では声を合成したのだそう。何度も聴いているうちに、なんだか目が回ってきてしまいました。不思議。映画のトレーラーを探して、動画を渡り歩いていたら、「あら、こちらはなんだかお水のように聴きやすい」と思ったのは韓国のカウンターテナー、チョン・セフンの声でした。後半がポップになっててびっくり。
緑の窓辺で、晴れた日の朝に聴いたのは、ソプラノの森谷真理さんのヘンデル です。心の奥にひろがる落ち着いた歌声がとてもよかった。(動画は見つけられなかったの)6/22のリサイタルが楽しみ。https://www.japanarts.co.jp/concert/p955/
ライラックの別名はリラで、子供の頃に見たバレエの「リラの精」のチュチュ(衣装)も薄紫だったことを思い出します。北国に住む人にとって、6月の色はライラックの薄い紫なのだろうな。(リラの精はチャイコフスキーの《眠れる森の美女》に登場します。)