
ブラームス:弦楽五重奏第2番 第1楽章
この曲を初めて聴いたとき、冒頭は、海の上で鳥たちが羽ばたいているようだなと思った。波立つ海面からそう遠くないところで、ときに風に押されながら空へ舞い上がったあと、翼をのびやかにひろげているようなフレーズが、チェロ、ヴァイオリン、ヴィオラへと順に渡され、一緒にどこかへ行けそうな気がする。
演奏会の当日は、本番前にゲネ・プロ(General Prove)という通しリハーサルが行われて、私たちはこれを客席で聴くことが多い。誰もいないホールで音楽を独り占めするのはなかなか贅沢なことで、マネージャー冥利に尽きる。舞台の上でほんの一言、二言かわされるやりとりに、はっとさせられることがしばしばあり、リハーサルの立会いが好きなマネージャーはあんがい多いのではないかと思う。
先日、このブラームスの弦楽五重奏第2番1楽章をとりあげたマスタークラス(公開レッスン)に立ち会った。マスタークラスといえば、先生と生徒のマンツーマンのレッスンのイメージだが、この時は、第1ヴィオラの生徒ひとりに、4人(ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロ)の先生が一緒に弦楽五重奏を弾くという、なんとも贅沢な室内楽クラスだった。すでに数回のレッスンを行っていて、私が立ち会ったのは午後から卒業演奏会が予定されていた日のゲネ・プロだった。
通して演奏した後、第1ヴァイオリンの先生(彼女が私の担当アーティストだった)が、譜面を確認しながら、ひとこと。
「そこね、かなりテンポが遅かったの。百歩譲って、歌いたかったとしても、そのテンポで弾くと、後が続かないのね。意味わかる?そのテンポが、次に引き継がれるから、そのままいくと、最後は、超スローになって楽譜と全く違うものになってしまうわけ。途中、私たちが必死に引き上げたけど、気づいた?そのテンポは遅すぎるって、弾きながら、何度も目配せしてたんだけど、、」
本番は、リハーサル中のこういったやりとり全てが奏者の動きに凝縮される。第1ヴァイオリンが鼻から息を吸い込むしぐさで曲がはじまり、途中、体や楽器を前後させ、互いに目配せし、奏者の表情も様々に変化する。
室内楽の楽しいところは何かと聞かれれば、目の前でくりひろげられる、このやりとりと答えたいと思う。奏者の真剣な視線やうながしの交錯に、人知れず目を合わせた恋人同士のようだとどぎまぎしたり、奏者の動きに同調して知らなかった世界や懐かしくてたまらない景色へ連れて行かれるような気もする。
その緊張感の裏には、受け取ったり、託したり、落としたり、落とされたり、お互いの意図がかみあわず、思っていたのと違う動きになることが、始まったら止まることのない流れの中では、いつでも十分にありえるということだ。それは舞台だけのことでもない。期待したイメージを描けないまま終わりがくる失意や、一瞬にして失う恐怖、それと紙一重の、一瞬にして満たされる歓喜をみな味わったことがある。
一度失って苦しんだものを再び得た思いがけないよろこび。深い感謝の中で、人が大きく変わる瞬間だと思うのだが、演奏を終え、舞台袖にもどってくる奏者の会心の笑みに、いつも特別なオーラのようなものを感じるのは、そういうことではないかなと思うのだ。
ブラームス:弦楽五重奏 第2番 第1楽章(カルテット・アマービレ ヴィオラ:大山平一郎)
カルテット・アマービレは、2016年9月難関で知られるミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏部門第3位に入賞、あわせて特別賞を受賞。
https://www.youtube.com/watch?v=6aEVL9m_Gts
映画「ピアノ・レッスン」の海は荒れ具合が私のイメージにぴったり。昔、映画を見て、この空を鳥が飛んでいると思ったのだけど、もう一度見てみたたら、鳥なんて全然いなくてびっくり。映画の最後で、捨てたピアノのロープに足をとられ海に沈んでいくエイダが、ロープを足から外し、海の上へ戻ろうとするシーンに、海上で飛び立とうとする渡り鳥をイメージしたのかもしれない。
映画「ピアノ・レッスン」
https://www.youtube.com/watch?v=61ooIf1QDZo&t=4s