120㎞ウォーク、それは至難であり指南である
120㎞ウォークを通して得たものや感じたことについて。
他の物事を取り組むことと、本質的には何も変わらない
この120kmウォークは、もちろんほかの旅と比べて遥かに過酷。こんなことは言うまでもない。そして、もうやりたくないほど。
だが、結局学んだことは、何か特別なことではない。正直ほかの旅や経験からでも得られそうなことばかり。
唯一特別なのは、「120㎞も歩いた」という経歴ぐらい。確かにこれは誇ることができるし、他の人ほぼ全員にはないものである。
ただし、他人と自分を差別化するために旅に出る人なんていないと思う。ほとんどは自分を磨くためや見つめ直すためではないか。
そして、ある物事から何か学ぶとき、その学びはその物事以外にも当てはまることが多い。今回もそうである。
得たものについて
もちろん、得たものと全く同じものを他の旅や経験から得られるわけではなく、筋が同じであるということ。
体験が過酷だった分、学んだことは、強く心臓や脳に刻み込まれている。
例えば、1㎞を走っても、120㎞を歩いても、あきらめずに頑張ることの重要性を学ぶことができる。ただし、120㎞歩いたほうが、あきらめないことの重要性をより強く実感する。
だから、苦しい経験を通して得たものの方がより説得力があると思う。
しんどい時、逃げたいとき、言葉は心を支えてくれる
思い通りにならなくてしんどくなったり、逃げたくなったりすることは多々ある。
そんな時、言葉は自分を奮い立たせてくれる。
それは、世界で活躍している人の言葉かもしれないし、身近な人の言葉かもしれないし、何ならあまり好きではない人や知らない人の言葉なのかもしれない。それがどんな人からであれ、言葉は、全人類に分け隔てなく力を与えてくれる。
120㎞を32時間かけて歩いたから、数えきれないほど感じたものや得たものがあるが、結局ゴールするまでに噛み締め続けていた言葉は主にこの二つ
「筋肉がnoと言っても、俺はyesと言う
約三十キロを過ぎたあたりから、足は限界を迎え始めていた。もう歩けない、歩きたくない。そんなしんどい状態から、目的地に到着するまでにかかった時間約一日。何度心が挫けかけただろうか。
でも、そこに足がある限り、エネルギーが完全に切れてしまわない限り、歩き続けることができる。どれだけキツいと思っても、どれだけ限界だと思っても、体はまだ耐えている。まだ動いてくれている。
やれるかやれないかは、やれると思っているか思っていないかにかかっている。いくら足がパンパンになったって、気持ちさえ折れなければ、あきらめずに前へ進むことができる
「毎日コツコツ積み上げる」
120㎞という距離をマップ上で見てみると、やはり相当長い。実際にその距離を歩くと、かかる時間の長さや体へのダメージに絶望し、到底たどり着けないように思えてくる。
でも、道は続く。一歩でも歩けば、それは一歩分目的地に近づいたということ。そして、それを120㎞分積み上げれば必ずゴールすることができる。どんなにきつくても、どんな苦しくても、歩き続ける限り、そしてその一歩を積み上げ続ける限り進んでいくことが出来る。
だから、どんなに状況が悪化したとしても、積み上げていくことで目標は達成されるはずだ。
変わらない景色を我慢する。少しでもいいから積み上げ続ける、これは簡単に見えて案外しんどい。
この旅も、何歩足を踏み出したどうかわからない。そして、近づいている実感なんてとてもじゃないけど湧かない。この辛さは形容しがたいものだ。ちょっと頑張れば達成できるようなものではない。
だから、辛抱する力が問われる。気をそらしながら、でも時には現実に目を向けつつ、歩き切らなければならない。これが想像以上に辛い。その分、歩き切った後の景色がより素晴らしい。
挑戦の価値
何かを期待して旅や挑戦をする。例えば、○○のスキルがつくからチャレンジするとか、心が癒されるはずだから景色が有名な観光地へ旅行するとか。
これが悪いわけではない。だが、予期せぬ成果も重要で、大事な気づきをもたらしてくれる。
この旅は、初めは大した意味などなかった。
だが、その途中で想定外なことがたくさん起きた。そして、想定外なことをたくさん学んだ。
だから、ここまで読んで、「なんだ、結局そんなもんかよ。120㎞歩くなんてただの馬鹿な行為じゃん」なんて結論付けるのは浅はか。
人間とは一生学び続ける生き物。その挑戦は意味なんてなくても、高価値な経験を与えてくれる。