潔癖
生きていることは汚れることだ、ということは生きているうちに次第に分かってくる。その考えが決定的になったのは戦争のときである。
汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。
生きているのに汚れていないつもりならば、それは鈍感である。
自分はもう、色々あって汚れすぎているから、これから何をどう頑張ろうと何も意味がないのではないか?みたいなことを中学あたりからずっとぼんやりと考えて続けていた。その”汚れ方”はその時々で意味が変わっていったが。
最近進路のことで特に悩んでいる時間が多く、このような考えがより強く、頭の中をぐるぐる回るようになった。そんな時に、ツイッターでたまたま吉行淳之介の上の言葉を見かけた。
そもそも吉行淳之介が言っている”汚れる”というのがどういうことを指しているのか、元の本を読んでいないので分からない。戦争という言葉が入っているので、当時戦時下において、時には致し方なく他人を蹴落としてでも生き延びなければならなかったという状況を指しているのかもしれない。だとすれば、結構現代の生き方にも通ずるところがあるのではないだろうか。
思春期~青年期のここ10年間ほどで、何か問題が発生した時に、自分は間違っていないはずなのに何故誰も助けてくれないのだろう?味方に立ってくれないのだろう?この人たちは自らの利のために保身に走って行動が起こせないのだ、汚れている、などと憤ることが多かった。また、自分が反対の立場になった際に、自分も行動を起こすことができず、汚れてしまったなと落ち込むことも多々あった。
吉行淳之介のこの言葉は、汚れても仕方ないのだな、生きるためにはそうならざるを得ないという安堵を私に与えてくれた。しかし、結局これからどう生きていけばいいのか、また汚れる場面に遭遇してしまったらどう対処すればいいのかは全く分からないままである。
近いうちに仮の答えだけでも見つけられればいいのだが。