![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/66625692/rectangle_large_type_2_691268add39fd174d5a886d0393fee47.jpg?width=1200)
【学び直し】アダム・スミスを読んでみたい①エッセンシャルワーカーの重要性
(引用元)
アダム・スミス(著)高哲男(訳)「国富論」(上)講談社
はじめに
『国富論』とは日本でつけられた略称だそうで、本当のタイトルの和訳は、『国民の富の性質と原因に関する研究』というそうです。
長いし堅いので、わかりやすくなるようにしたんでしょうね。(漢字のなせる技でもあります)
そのタイトル名からわかるように、本書は経済学の(あるいは資本主義の)本質を明らかにするためのものであったと推察されます。
アダム・スミスの名前は、日本の社会科の教科書に出てくるぐらいの有名人ですから、知らない方はあまりいらっしゃらないと思いますが、18世紀に 活躍された経済学の祖ともいえる偉大な方です。
つまり今から300年も前の人間が、経済学の礎を築き、今なお影響を与え 続けているということですね。
まさに「学び直し」第一号としてふさわしい(という言い方すら恐れ多い ことですが)価値ある著作です。
「序と構想」
本書の冒頭には、まえがき等が並んだ後、「序と構想」という、あらすじのような部分があります。
本書が大筋としてどのような目的を持って記されたかということに加え、 その目的を達成するために構成された各編(全5編)の個々の目的について触れています。
今回、この部分だけ読み込んでみたのですが、ここだけでもかなり示唆に 富んだ内容となっていました。
以下、注目したポイントです。
今回の引用ポイント
(生産物やそれと引き替えに購入したものと、消費する人間の数の) 比率は、どの国民でも2つの異なった事情―――第一に、一般的に国民の労働が用いられる際の技能、技量や判断力によって、第二に、日常の必要を満たす労働に従事している人間の数と、それに従事していない人間の数との比率によって―――左右されるはずである。
馴染みがないと、結構わかりにくい文章ですよね(^^;)
「国富論」はたいへん有名な著作なので、興味を持ったことがある方もいらっしゃると思いますが、冒頭からこれなので、いきなり辛くなってしまうのではないでしょうか。
内容を数式に置き換えてみる
この文章を(ちょっと強引にですが)数式に置き換えると以下のようになります。
[需要と供給の比率]=f{[技術水準],[必須産業への労働参加率]}
いきなり数式で恐縮ですが、経済学は基本的に数学的手法を用いた、抽象的な考察ができる点にメリットがあります。(fは「関数」という意味を表す記号です。無視して結構です。)
未だに社会科学系を選択する学生たちの多くは数学が苦手と聞きますが、 経済学における数学は、本気で論文を書くだとか、仕事で厳密なレポートを出すとかでない限り、それほど高度な知識は必要としません。
特に、今回の数式の中に文言が含まれていますように、それぞれの式で扱われる文字(一般的にはPとかQが使われますね)には意味があります。
その意味を読みとれるようになれれば、そこまで苦労はしなくなると思います。
数式の意味
さて、今回の
[需要と供給の比率]=f{[技術水準],[必須産業への労働参加率]}
ですが、これは
市場において生産物が過剰(超過供給)であるか、不足(超過需要)しているか(左辺)は、その国家の生産技術に関わる知識や技能のレベルと、一国内での必須産業、つまり生活に必要不可欠な産業への労働参加率で決まる(右辺)
という意味です。左辺の内容は、現在は数理的な検証が進み、需要と供給のグラフで説明されていますが、この当時はこれが論理の中で説明されていました。
そして、当該式の右辺は、いわゆる生産関数と呼ばれる、国家の富(今でいうGDP)を決定する式です。
もちろん、現在のGDPの定義とは若干異なるものの、今でもGDPは国の経済規模を示す指標として取り扱われているわけですから、これを300年前に形作ったというのはすさまじいことですね。
数式の解釈
ところで、この式は、左辺は需給均衡に関する内容、右辺は生産関数です。つまりこれは、需給バランスを決定するのは供給サイドの問題だと考えられたということですね。
この辺の内容は、ケインズ経済学との対比の中でさらっと触れられることがあるくらいで、あまり詳細に説明してもらった記憶がありません。
そして、生産関数内の変数である技術水準ですが、スミスの認識では、 いわゆる国の開発発展度の違い、というイメージだったようです。
つまり、開発発展度の違いをもたらす技術水準の差があるとき、相対的に いわゆるエッセンシャルワーカーの割合が少ない状況であっても、より多くの富を生産することができる、という意味ですね。(今の言葉で言うと、 一人当たりの生産性が高い、ということでしょう。)
これは、現在の状況にも十分当てはめて理解することが可能です。
例えば、日本は生活に不可欠な財やサービス(何を不可欠とするかは置いといて)に従事する労働者の割合は、途上国などに比して、相対的に少ないといえます。
それでもなお、世界第3位のGDPを誇っているのは、技術水準の高さ故、 というわけですね。(もちろん、その他の影響も大ですが、ここでは不問)
なお、アダム・スミスの生産関数の定義に、いわゆるエッセンシャルワーカーのみ扱われていることには、それなりの意図があったようです。(ここまでの文章ではその意図はまだ読みとれませんが)
コロナ禍でも、エッセンシャルワーカーの重要性に再注目されていましたが、経済が安定的に維持されるためには、このエッセンシャルワーカーの方々がキーとなっていると、スミスも認識していたのではないでしょうか。
まとめ
以上のように、現代でも通じる理論的フレームワークを示した画期的著作であったことは間違いないでしょう。
まだ概要しか読んでいないのに、このボリュームです(;´Д`)
特に、国内の富を、エッセンシャルワーカーによる生産のみに限定している点などは、今後も注目したいポイントです。
早速長々となってしまいました。
また次回(・∀・)ノシ