息子が生まれたときの日記が出てきた。

息子が6歳になった。なんだか懐かしくて過去のあれこれを見返していたら、息子が生まれたときの日記が出てきた。あえてそのままを家族の記録としてここに残しておこうと思う。すこし恥ずかしいけれど。

2017年6月15日「なんとも言えなさ」

よくある話だが、昨日に息子が生まれた。

よくある話だが、自分に息子が生まれるとは思いもしなかった。

44時間もの陣痛に丸三日間一睡もすることなく耐える妻の腰やおしりを押しつづけた身体に、ひどい筋肉痛が遅れて襲いかかってきた。「もう歳かな」と思いつつ、息子の寝顔を見て「まだまだこれからだな」と思いなおす。そして、「息子が生まれたときの気持ちを忘れないために」との極めて個人的な動機で、あえて感傷的になりがちな夜明けまえに、すこし痙攣する手をおさえながら、この文章を書きはじめた。

妊娠初期、妻のおなかでうごめく音に胎動かと思って話しかけていたら、医者から「それはただのガスですよ」と言われて赤っ恥をかいたのも今となっては芳しい思い出だ。

きっと世界で初めて「パパでちゅよ」と、ウンコの溜息に過ぎないオナラに向けて宣言してしまった汚名を挽回するために、これからはウンコがどうのとかオナラがどうのとかいった話題に終始することなく、いつか息子がこの日記を見たときに「オヤジ、ぜんぜん変わってないな」と呆れられる日を目指して生きていこうと思う。

以下、余談ではあるが、息子はわたしの父が死んだ日の、死んだ時刻に生まれてきた。

死のイメージで彩られた瞬間が生のイメージでまざまざと塗りかえられていく光景に、自分までもが生まれ変わってしまうかのような、言葉では表現できない気持ちになった。そして、まさに自分の身を投げ打つようにして息子を産もうとする妻の決死の姿にも、言葉では表現できない気持ちになった。そんな言葉では表現できない、なんとも言えない瞬間の連続だったような気がする。

これまでの自分ならば、言葉では表現できないものを口惜しく思ったのかもしれない。ただ、今は、言葉では表現できないものを静かに受けとめようとしている。

なんとも言えないものをなんとか分かりやすく言葉で表現しようとするのではなく、なんとも言えないもののなんとも言えなさをなんとも言わないままに言葉で表現できるようになってみたい。

そのために、わたしも息子と同じくまっさらな状態に戻って、自分というものをまた一から積みあげていこう。そして、なんとも言えない人生を送り、なんとも言えない人間になろう。

そんなことを珍しく真面目に、第一感として考えている。

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