どんどんドン・キホーテ

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』を観た。
いいね。すごく感動したとか、ボロボロ泣いたとか、そういうことじゃないのだが、またひとつテリー・ギリアムから何かを受け取った。

元々、『ドン・キホーテ』が僕は好きだ。20代初めの某CDショップでバイトしていた頃、メーカーから大量のサンプルCDが送られてくるのだが、映像部門には同じように映画のDVDが届く。映像担当の社員さんが僕が映画好きなのを喜んでくれて、ありがたいことに事務室のサンプル箱から自由に借りて観て良し、としてくれた。僕はタダに滅法弱く、片っ端から借りて観まくった。社員さんとは、それぞれ借りて観たものに簡単なコメントと☆を付けて返す。なんだか素敵なシステムだったと思う。

普段、僕はクラシカルな作品は気になりながらも、なんだかお勉強的な気分にもなってしまい、いざ何か観ようとするとき、ついつい選ぶのをサボってしまう。しかしその素敵なサンプル箱に、ある日、かなり昔の映画作品の『ラ・マンチャの男』を見つけたのだ。
で、思いの外、胸を揺さぶられた。うまく当時の気持ちを正確には書けないが、今思い返して言葉にするなら、人が何かを強烈に思い込み、信じ抜く力強さと純粋さに胸打たれたのだ。

テリー・ギリアム版は、メタな構造が面白いね。
ドン・キホーテのせいでドン・キホーテになっちゃったおじいちゃんと、その原因になった主人公の旅。
名作『フィッシャー・キング』のことも彷彿とする。自分がやってしまったことが、“狂人”を生み出してしまったことを知り、寄り添うはめになり、次第に受け止めいくお話。最後は、こっちの世界とあっちの世界の境界が曖昧になり、逆転していくような感じも重なる感じがした。
同じ監督で別作品でも繰り返される近いモチーフは、すごく気になる。表現者は自分の、の、あれ、あの言葉が出てこない。自分の“弱点”みたいな。“気になりポイント”みたいな。コンテンポラリーじゃなくて。なんだっけ...(追記:「コンプレックス」でした)
とりあえず、そういう部分の表現を反復するらしい。心のキズとか。

閉鎖的な環境にいたはずの人間に選択肢や希望を与えることの、ある種の残酷さのことを描いてるようにも思えるなあ。
あと、嘘と知りながら漫画や映画のフィクションの世界に涙が出てしまう、人の心の不思議さのことも考える。ビジネスであろうと、個人作品だろうと、作り手も受け手も、その世界を、その人物や物語を信じることで、知らなかった感情に出会えたり、救われたりするんだから、面白いよな。

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