ラーゲリより愛を込めて 感想文
子育てに夢中で映画を最初から最後までゆっくり観る余裕がまだ無い。年に1~2本観るか観ないかの頻度だけれど、今は何事も無抵抗に過ごすことができていてあらゆる出来事に恵まれる。絵本も本も映画も自らあれこれ手に取らず、目の前にポンとやって来たものだけ、人からススメられたものだけ、直感的に強いものを感じた時だけ触れるようにしていると自ずと名作に出逢える。
先週、子どもたち就寝後に夫の誘いで「ラーゲリより愛を込めて」をAmazon Primeで観た。夫は「あー間違えた。観たかったのこれじゃなかった。」と言い残し呆気なく寝落ち。笑
この映画が公開されたのは1年半前だというのに全く知らず、もちろん原作も知らない。事前情報を持たないまま、心の準備が出来ていないままに観はじめ、終盤一人ボロボロと涙を流しながらエンディングを迎えることになった。(映画やドラマなどフィクションで涙を流すことはほぼほぼ無い。ノンフィクションでは泣く。)
以下ネタバレ
ラーゲリより愛を込めて
これ実話?と気付き始めた辺りから、子供や孫が現代に暮らしてるかも?と疑問が湧き知ることへの心構えが必要だと覚悟を決めた。
戦争(戦闘)を経験していない、強制収容所を知らない、生まれた時から衣食住が揃い、過剰な娯楽のある世の中で育った者が何を語る。
私は自分の生い立ちを上手く話すことができない。それを表現する力を持っていないのもあるだろうし、自分の身に何が起きていたのか記憶が曖昧だからかもしれない。ただ、長く暴力の中で生き延びてきたことは確かなので、稚拙だとしてもこの映画についての感想を綴ってみたい気持ちに駆られた。
(トラウマや怨恨等の感情は既に皆無。過去の出来事は全て昇華させ、お情けはご不要。)
ラーゲリは地獄そのもので目を背けたくなるシーンが続く中、希望の光は主人公山本幡男の日本を想う気持ちと日本語を扱う美しさに他ならない。多くの収容者が戦争の壮絶な体験から感情を失くし生きることを諦めかける中、山本が堂々と魂に訴えかけ、死にかけていた者達一人一人を蘇らせていく言動は観ているこちら側も痛みを伴う。
ロシア語の堪能な山本はラーゲリで通訳者として働き、言語に対して人並外れた情熱を持っていたので、俳句や短歌を詠む会を密かに開き、絶望感に苛まれる中でも自然の趣や季節の移ろいに想いを馳せることで仲間と共に生きることを諦めない心を育て、人間の芯がみるみる逞しくなっていく様は、ただただ美しい。
中には戦争を経験していない教養の乏しい純粋な青年もおり、日本語で歌を詠むとは日本人にとってどんなに大切な文化なのかを山本の佇まいや生きる姿勢から学んでいく数々のシーンにも心を打たれる。
山本が綺麗なヒーローとして完結しないことがまたやるせない。
最終的に山本は癌を患いラーゲリ内の病院で闘病することになるんだけれども、そこはシベリアの強制収容所。治療も療養も無いような場所。ベッド上で一人、生と死と真っ向から向き合う。強制労働より拷問よりも強い苦痛に襲われ、どう過ごしていたのか想像を絶する。
死期が近いと判断した仲間が、日本に暮らす家族に宛てて遺書を書くように山本に命じ、書き終えるのだけれど、文字を残すことはスパイ行為と見なされ全て没収される為、仲間達が山本の遺書を記憶して日本に持ち帰ることになる。山本没後の仲間達の生き抜く強さは凄まじく、信念を貫くとはこういうものなんだとひたすら胸が痛む。
戦後最長11年間の抑留後、12年目の1957年埼玉県にある山本の家族の暮らす家に仲間が訪れた。
「私の記憶してきました山本幡生さんの遺書をお届けに参りました。」
あとがき
赤化思想や左運動、抑留者への日本政府の対応などは描かれてなくて、醜く残酷な描写も控えめ、山本がアメリカ民謡をよく口ずさむこととロシア語話者なこと、草野球を楽しんでいたこと、俳句に重きを置いていたこと、野良犬クロが不思議なエンディングを飾ること、これらが何を意図してるのか考えてみると、多くの戦争作品で描かれる分裂ではなく統合を強調してるんだと気づき、この混沌とした現代を生き抜く自信に繋がる紛うことなき偉大なる先人からの遺書を今ここで受け取ることができました。
(どんな作品にも賛否両論あり。)