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銘苅春政先生への追悼文


銘苅先生との出会い

三線職人・銘苅春政「匠の蔵」より

2024年も終わりを迎え、振り返る中でどうしても向き合わざるを得ない、心に深く刻まれた出来事があります。

三線の棹作りに一生を捧げた銘苅春政先生との出会いと別れです。沖縄に移り住んで24年余り、東京に住んでいた頃からそのお名前は耳にしていましたが、まさか最晩年に先生と直接お話しし、濃密な時間を過ごせるとは思いもしませんでした。

三線の中に宇宙があると聞いて思わず覗き込む

銘苅先生が亡くなられたと知ったとき、私は言葉を失うとはこういうものかと思いました。

あの穏やかな笑顔と、燻銀(いぶしぎん)の音色を、もう聞けないのだという現実を、どう受け止めればいいのか分からず、ただ茫然とする日々が続きました。

何度も追悼文を書こうとしましたが、その時は沖縄県北部で起きた豪雨災害の支援に必死で、思うようには気持ちが言葉になりませんでした。
このまま誰にも話さず心にしまっておこうとも思ったのですが、こうして年の暮れにやり残したことを振り返る中でこのことは避けて通れぬ道と覚悟を決めてこの投稿を書いています。

銘苅先生がいなくなった工房


私は仕事柄、多くの方の喪失に立ち会ってきました。しかし、エリザベス・キューブラーロスが提唱した「喪失の受容」の過程とともに少しずつ別れを受け入れていく側の人間となりました。

私は専門家ではなく、1人の人間として、そのプロセスを自分自身が体験していることを痛感しています。

これは親とか家族が亡くなるのとはまた不思議な体験です。

最初は、何だか先生が亡くなってしまったことを認めるのが嫌で仕事に没頭したり、恥ずかしながら、先生が私の注文した棹を作り上げずに逝ってしまったことに怒りを覚えることもありました。

夏の暑い日には先生が好きな猫の餌と経口補水液を買って行ったものですが、とてもお元気なご様子でした。

10月に先生にお会い時には何だか気が抜けたような表情をしていらっしゃった(お話しをしているといつもの銘苅先生に戻りました)ので「あの時に救急車を呼んでおけば‥」と自責の念をぼんやりと感じることもありました。

しかし、こうして追悼の言葉を綴る今、このプロセスの最後の段階である「受容」へと、私も一歩踏み出せているのかもしれません。

それは忘れてしまうことでも、悲しみを無理に手放すことでもありません。
先生との思い出や教えを、自分自身の中で生かし続けることなのだ、とどうにか信じようとしている自分がいます。

私は、初めて先生の工房を訪れた日を今でも鮮明に覚えています。

そこには、60年にわたり棹を削り続けた先生の哲学に満ちた空間があり、そこに無邪気に笑う銘苅先生がいました。

それ以来、月に一度の訪問が私の日常の一部となり、先生と語り合うは、私にとって楽しくも、かけがえのない時間となりました。

三線に宿る哲学

銘苅アーチ(真壁型)


銘苅先生は「三味線は味がないと三味線じゃない」「三線ではなくて三味線だわけよ」「味ぐわーが大事」と口癖のようにおっしゃっていました。

そして、先生は与那城型(ゆなー)の優美な曲線を得意としました。銘苅先生はその美しい弧をしばしば「アール」と表現しました。

私は東京の出身なので銘苅先生が作られた江戸与那城型(えどゆなー)を弾いています。

江戸与那城型の三線は琉球王朝の慶賀使や謝恩使といった江戸上りの際に使われました。長い旅の道中で弾かれたため糸蔵が長く与那城型よりも大ぶりに作られています。

その堂々たる三線を持っていくと決まって「あぁ、可愛いぐわだねー」と孫が遊びにきたように、にっこり微笑む姿が忘れられません。

その三線作りの哲学は、単なる美しさを超え、人々を繋ぐ「ちむぐくる」(思いやり)という価値観にも通じています。

「人間は欲を持ってはいけない」
「そりゃあ生きていたらちょっとぐわー必要だけれども、大きい欲は駄目だよ」
「それが戦争を生む原因だよ」と、
先生はよく語っていました。

また「お腹空いている人がいたら、食べ物をあげなさい。これが沖縄の”ちむぐくる”というわけさ」と続けるその言葉は、深い説得力を持っていました。

先生の三線職人としてのキャリアは戦中、戦後のおびただしい数の位牌を作る仕事から始まったそうです。

余分な装飾を削ぎ落とした末に残る抽象的な美しさは熟練の三線職人でもうまく言語化できません。先生がミケランジェロの作品に敬意を示していたことも印象的でした。

また、1950年代、人間国宝・故照喜名朝一氏が銘苅先生の棹を引っ提げてカーネギーホール公演に同行した時にエンパイアステートビルへ登った話を子どものように無邪気に語る先生の生き方をとても魅力的に思いました。

運命と穏やかな最期

銘苅先生は典型的な決定論者でもありました。「ああ、あんたか、きっと来ると思っとったよ」とか「あんた達がここに来ることは、ずっと昔から決まっていたことなんだよ」と言う言葉に最初は驚きましたが、世の中の理について語る姿に先生の世界観を次第に受けいれられるようになりました。

決定論者とは、物事の結果や出来事はすべて、過去の原因や条件によって決まっており、偶然や自由意志によって変えられるものではないと考える人を指します。

<決定論者の基本的な信念>

すべての出来事には原因がある

出来事が必然的に生じると考えます。これにより、未来はある意味で「予測可能」であるという立場を取ります。

自由意志の否定または制限

決定論者は、個人の選択や行動さえも、過去の経験や環境、遺伝的要因によって決まると主張することが多いとされます。表面上は「選んでいる」と見える行為も、実際は外的・内的要因の結果だと考えます。

偶然を排除

たとえ偶然に見える出来事でも、それはまだ明らかになっていない原因が存在するためだとみなします。

そのどれもが銘苅先生の生き方に表れていると思います。

銘苅先生の、運命や必然性への信念、平静な態度、物事を深い視点で捉える態度は、大日本帝国の虚栄により20万人もの犠牲者が出た沖縄戦の悲劇と無縁ではないと思います。

このような厳しいスタンスを貫くことは戦争で亡くなった人々を弔い、また生き抜いた者の宿命であると感じました。

先生が末期の病を抱えていることを私たちが知ったのは、亡くなられた後のことです。

ご家族の話によると前の日までお元気でいらっしゃり夕飯もしっかり食べ、最後は眠るように息を引き取ったそうです。

先生の人柄を思うと、残された人のためにいらない気を遣わせないよう努めていたのかなーと思います。最後の姿にも「ちむぐくる」を生き方として見せてくださったように感じます

銘苅先生は「情熱大陸」で取り上げられるほどの偉大な職人でしたが、その死は大きく報じられることはありませんでした。

それでも、それは先生らしい飾らない生き様の現れだったのだと思います。派手な注目を望むことなく、三線の棹に宿る美しいアールと、そこに込められた思いを胸に旅立ったのだと思います。

先生の遺してくださったもの

銘苅先生が作った三線を手にすると先生の言葉や笑顔が蘇ります。おそらく、先生の人柄を知る方は皆同じお気持ちなのではないでしょうか。

きっと先生が作られた美しいアールは、人と人をつなぐための「かけ橋」だったのではないかと思います。

そして、これからも銘苅先生が作った三線の響きは聴く人の心をつなぐことと思います。
ここに改めて銘苅春政先生のご冥福をお祈りいたします。

筆者の江戸与那城を調弦する銘苅春政先生



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