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暴力と禁止:フロイトの『トーテムとタブー』再評価から見える文化の力

人類の歴史には戦争、暴力、犯罪といった蛮行が存在してきました。ニュースで目にする事件や、映画やドラマで描かれる暴力的な場面は、私たちの記憶に刻まれています。しかし現実には、こうした暴力が日常的に溢れているわけではありません。それはなぜでしょうか?

それは、人間が文化や社会規範を通じて内なる暴力を抑止する仕組みを進化させてきたからです。この考え方を理解する上で、フロイトの著作『トーテムとタブー』は重要な示唆を与えてくれます。本記事では、フロイトが示した人類の初期文化における暴力の起源と抑止のメカニズムを再評価しながら、人類がどのようにして暴力を抑制してきたのかを考察します。


1. 『トーテムとタブー』とは何か?

家庭内で兄弟同士がケンカをして親から叱られるというのはよくある話ですが、フロイトの視点ではこのような日常的な対立も、人類の深層に眠る「暴力性」が関係していると見なすことができます。彼の代表作『トーテムとタブー』では、原始社会においてトーテム制度とタブーがどのように形成され、暴力の抑制に寄与したかを論じました。

※トーテム制度とは、特定の動物や自然物(トーテム)を祖先や保護者とみなして崇拝し、それに基づいて社会的な規範や禁忌が定められる文化的制度です。多くの狩猟採集社会や部族社会に見られ、トーテムは集団のアイデンティティや結束の象徴となり、その動物を食べたり傷つけたりすることが禁じられる場合が多いです。

原始群のドラマ

  • 父親の支配: 力を持つ父親が群れの女性を独占し、若いオスたちを排除する。

  • 息子たちの反乱: 若いオスたちは連携して父親を殺害し、その肉を分け合う。

  • 罪悪感とタブー: 父親を殺したことへの罪悪感が、トーテム信仰や近親相姦のタブーを生み、暴力の再発を防ぐ。

この「父親殺し」の神話的構造は、実証的な事実ではありませんが、人類が暴力的な衝動を文化的な抑制へと昇華する過程を示した象徴的な理論です。


2. 暴力の抑止における文化的メカニズム

フロイトが指摘した重要な点は、暴力は完全に消えるのではなく、文化的な規範や象徴的な制度を通じて制御されるということです。

(1) タブーとしての暴力の制御

日常生活で私たちは知らず知らずのうちに「やってはいけないこと」を意識しています。例えば、交通事故現場で助けを求める人を放置することには強い罪悪感が伴いますが、これは文化的な規範に根ざしています。

  • フロイトは、暴力がタブーとして社会に内面化されることで、その発現が制限されると述べました。特に、殺人や犯罪行為に関するタブーは、ほぼすべての文化に共通して存在しています。

    • 例: 殺人は法的に禁止され、宗教的にも罪深い行為とされる。

    • 文化的内面化: こうした規範が幼少期から内面化されることで、暴力的衝動に対する抑制力が形成されます。

(2) 罪悪感と内なる検閲

子どもの頃、親に叱られた経験がある人なら「してはいけないこと」を覚えています。それが成長するにつれ、外部からの叱責は少なくなり、自分の内なる声(良心)が制御するようになります。

  • フロイトによれば、暴力を抑止するもう一つの重要な要因は罪悪感です。罪悪感は、親や社会からの規範が内面化され、**超自我(super-ego)**として機能することによって生まれます。

    • 超自我の役割: 衝動的な欲望(エス:id)に対して、超自我がブレーキをかけることで、暴力行動が抑制されます。

    • 文化的昇華: この抑制された衝動は、芸術やスポーツ、宗教的儀式などを通じて社会的に許容される形で昇華されます。

しかし、こうした仕組みが働かない場合には、いじめや家庭内暴力(DV)が発生することがあります。学校でのいじめや家庭内での暴力は、加害者が内なる規範や罪悪感をうまく機能させられないことが一因です。この問題は、家庭や学校での規範教育や心理的なケアを通じて対処する必要があります。


3. 暴力の抑止と進化生物学との接点

フロイトの視点は、進化生物学や動物行動学の知見ともいくつかの共通点があります。

(1) 集団内暴力の抑制と協力の進化

  • 進化生物学の視点からは、暴力の抑制は協力行動の進化と密接に関連していると考えられています。群れ内で無制限の暴力が発生すれば、群れ全体が壊滅する可能性があるため、協力を促進する仕組みが進化しました。

    • 共通点: フロイトが述べた「父親殺しの後の社会的規範の形成」は、進化生物学における内集団の安定を確保するための規制と一致します。

(2) 共感の役割

家庭内で小さなケンカがあっても、兄弟同士がすぐに仲直りできるのは、共感によってお互いの気持ちを理解する能力が働くからです。

  • フロイトは共感について明確に論じていませんが、現代の心理学や進化生物学では、共感が暴力の抑制において重要な役割を果たすことが明らかになっています。

    • 共感の進化: 他者の苦痛を理解し、それを回避しようとする行動は、群れの安定と協力に寄与します。

    • 文化との相乗効果: 共感は文化的規範と結びつき、暴力をタブー視する社会的抑制をさらに強化します。

いじめの現場でも、加害者が被害者に対して共感を持たないことが暴力の要因になります。共感の欠如は、心理的に深い問題を引き起こすため、共感教育が重要です。


4. 現代におけるフロイト理論の再評価

現代社会では、フロイトが示したような罪悪感とタブーの仕組みは、法制度や教育、宗教、心理療法を通じて複雑に組み込まれています。しかし、現代の暴力抑制にはいくつかの課題も残されています。

(1) トラウマと暴力の再発

  • 暴力的な環境で育った人々やトラウマを抱えた人々は、内面的な罪悪感や超自我による制御が正常に働かないことがあります。このため、暴力の連鎖が発生しやすくなります。

    • 解決策: フロイト的な無意識の探求を基礎とした精神分析的アプローチやトラウマ治療が必要です。

(2) 代償的な暴力表現の必要性

スポーツの試合で選手たちが激しくぶつかり合う場面は、現代社会における暴力の「代償的表現」として機能しています。

  • フロイトは、暴力的な衝動は完全には消えず、適切な代償的な表現が必要だとしました。現代では、スポーツやエンターテインメントがその役割を担っていますが、暴力的なゲームや映像が逆に暴力を助長するリスクも指摘されています。

    • バランスの取れた代償: 社会的に有益な形で衝動を昇華させる仕組みが求められます。


人類は文化によって暴力を抑止できる

フロイトの『トーテムとタブー』は、人類が文化的規範を通じて内なる暴力をいかに抑制してきたかを示す重要な視点を提供しています。タブー、罪悪感、共感、そして文化的昇華といった複数の要因が相互に作用し、私たちの暴力的な衝動を社会的に許容可能な形で制御しています。

現代においても、暴力を完全に排除することは困難かもしれません。しかし、フロイトの理論が示すように、文化的な抑止メカニズムを適切に機能させることで、人類は平和な社会を維持する可能性を秘めています。

映画やスポーツ、教育現場における規範の力――私たちの身近なところに存在する抑止メカニズムこそ、未来に向けた鍵になるのかもしれません。いじめや家庭内暴力への対処もまた、こうした文化的抑制の一環として重要な課題です。暴力の根源を理解し、それを制御する力を社会全体で強化することで、より穏やかな未来が築けるでしょう。

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