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凪 nagi
風の消えた瞬間、世界はふと息を潜めた。波ひとつない海の静寂が広がる。だがそれは、ただ世界が動きを忘れたかのような無音ではない。静寂の底には、なおゆるやかな時間の流れが息づいている。
水平線まで凪いだ海は、鏡のように空を映し出している。だが目を凝らせば、水面にはなお微かな揺らめきが残っている。その小さな波紋の一つ一つが陽光をまとい、静かな海原に淡い輝きを散らしている。
風もなく、岸辺の木々や岩の影はじっと地に伏している。揺らぐものがない影はやがて輪郭を失い、静寂に溶け込んでゆく。動きのない時間の中では、影ですらその存在を次第に希薄にしてゆくように見える。
この静寂は休符に似ている。旋律の合間に訪れる無音が次の音を豊かにするように、風のないひとときが世界に深みを与えている。耳を澄ませば、静けさの底から無意識の響きが立ち上ってくる。普段は気づかない自らの鼓動や、遥か彼方でさざめく波の音までが、静寂の中そっと耳に届いてくる。
この凪の静けさの中では、時間の流れさえもゆったりとたゆたっている。一見止まっているようでいて、実は「静かなる動き」が息づいている。風も波もない瞬間にも、海の底では見えない潮が満ち引きし、水平線の彼方では新たな風が生まれようとしている。静けさは決して虚無ではなく、万物が密やかに息づくひとときである。