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ラヴェル編曲《展覧会の絵》—「ビドロ」に込められた抑圧の声



ムソルグスキーの《展覧会の絵》の中でも、ひときわ異様な重さと暗鬱な雰囲気を漂わせる「ビドロ(牛車)」は、ラヴェルの編曲によってより生々しく、深い象徴性を帯びた作品となった。コントラバスとチェロのディヴィジョンが刻む重低音、テノールチューバの押し殺したような響きは、単なる牛車の軋みを超えた「抑圧の象徴」として、我々の心に重くのしかかる。

牛車の軋む音—コントラバスとチェロのディヴィジョン

「ビドロ」の冒頭、コントラバスとチェロが細かく分割され、重厚な低音の波を織りなす。この響きは、牛車が石畳を軋ませながら進む様子の表現であろう。ラヴェルはここで、単なる情景描写にとどまらず、圧政による抑圧と停滞感を、音楽の構造そのもので描き出す。

牛車はただの乗り物ではない。それは、重い荷物を引くことしかできない存在の象徴であり、逃れられない運命を負わされた者たちの心情そのものを表している。どこへ向かうのかも分からず、ただ粛々と進むのみ。こうした心理的な圧迫感は、弦楽器の分厚い響きと絶え間ないリズムの繰り返しによって、聴く者の心をじわじわと締め付ける。

テノールチューバの響き—抑圧された声

この楽章の主旋律を担うのは、テノールチューバである。便宜上、この書き方にしたが実際はフレンチ・チューバであり、ワグナーチューバで代奏されたり、ベルリンフィルではバリトンと呼ばれる低音楽器で奏される。いずれにせよ、この楽器が、ここでは押し殺したような響きで淡々と旋律を奏でる。この響きは、ただ力なく荷物を運ぶ牛の呻きとも、重荷を背負わされた人々の内なる声とも受け取れる。

ポーランドの圧政下、苦しむ民衆の抑圧された声が、このテノールチューバの音色に溶け込んでいるのではないだろうか。彼らの悲痛な訴えは、あまりに長い間押し殺されてきたが、それでもなお、音楽の中に微かな抵抗の意思を残しているように思える。

頂点への展開—抑圧された声の解放

牛車が目の前を通り過ぎる瞬間、音楽は急激に熱を帯び、抑圧された声が噴き出すかのように爆発的な展開を見せる。弦楽器によるディヴィジョンによる下降系の理不尽な旋律は
オーボエによるビブラートを伴った上行型の短三度の保続音は感情を揺さぶり、さらに煽るようである。
そして、オクターブ上に登場する第一ヴァイオリンの悲痛な響きは徐々に高揚し、閉じ込められた感情を次第に解放へと導く。これは虐げられた民による声無き声であろう。緊張を一気に高まり、最終的な爆発へと導く役割を果たす。

そして、圧倒的な**fff(フォルティッシッシモ)**で冒頭のテーマが全奏される。ここでは牛車の存在感が最大限に強調され、抑圧されてきた声がついに叫びとして顕現する瞬間である。全楽器の咆哮は、悲劇の絶頂であり、同時に一瞬の解放である。しかし、それも束の間、音楽は再び冷静さを取り戻し、愚鈍な歌へと回帰してゆく。

幻のように遠ざかる牛車—現実と夢の交錯

クライマックスを迎えた後、音楽は再び静けさを取り戻し、冒頭と同じ重苦しいリズムへと戻る。牛車は遠ざかり、次第に聴こえなくなってゆく。その後ろ姿は、我々に問いかける。

あれは現実だったのか、それとも夢だったのか。

ムソルグスキーの原曲は水墨画の世界で「牛車」そのものを描いたとされる。
一方、ラヴェルの編曲による「ビドロ」は、単なる情景描写を超え、過去の悲劇と、今なお続く抑圧の歴史を音楽の中に刻み込んでいる。

目の前を通り過ぎる牛車は、確かに存在していたはずなのに、その影だけが残り、心に重くのしかかる。

音楽が最後に静けさの中へと戻るとき、私たちは問いかけずにはいられない。

この重荷は、果たして消え去るものなのか、それとも、今もどこかで軋み続けているのだろうか。

「ビドロ」は、私たちが日常の中で気づかぬうちに背負っている重荷を、そっと耳元で囁きかけるように奏でられる。

その音楽に耳を傾けることで、過去の影を振り返るだけでなく、未来への道を考える契機となるかもしれない。

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