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老いてなお輝く音楽の巨匠 – ヘルベルト・ブロムシュテットの歩み


 97歳の指揮者が音楽界をざわつかせる理由


私が勤める病院では物忘れ外来がありますので毎日のようにお年寄りと接しております。高齢の方が面談室まで独歩で歩いて行く姿を見守る度に心が動かされます。

しかし、97歳という年齢で、世界有数のオーケストラの指揮台に立つ人がいる―そんな光景を想像しただけでも驚きを禁じ得ないでしょう。

それが現実の出来事となったのが、巨匠ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)氏の存在です。彼は前人未到の円熟を迎えており、その深い音楽性は世界中の音楽愛好家から尊敬の念を抱かれており、生きながらにして”レジェンド Legend”としてその名を刻まれています。 

先日、2025年のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でセミュオン・ビシュコフ氏の病気療養による降板が発表されました。
通常、指揮者の体調不良などで降板が決まると、新進気鋭の若手指揮者が起用されます。


しかし、今回の代役として発表されたのが、「ヘルベルト・ブロムシュテット氏だったのです!!」。

そのニュースは、クラシック音楽界隈をざわつかせています。

この驚きは単なる年齢によるものではありません。ブロムシュテット氏は人生の最終章においても音楽の深淵に挑み続け、その表現力で聴衆を魅了し続けているからです。「老い」や「限界」を超えたその姿は、私たちに新たな希望をもたらしてくれるでしょう。


ヘルベルト・ブロムシュテットの軌跡

1927年、アメリカ・マサチューセッツ州に生まれたブロムシュテット氏は、スウェーデンで育ち、音楽教育を受けました。そのキャリアは70年以上に及び、ドレスデン国立管弦楽団やライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団といった名門オーケストラで数々の名演を生み出してきました。
彼の音楽は、楽譜に忠実でありながらも、人間性の温かさを湛えた深い表現が特徴です。97歳という年齢を迎えた現在も、リハーサルや本番での姿勢は若い指揮者に大きな影響を与え続けています。


ブロムシュテットが示す「老い」の価値

ブロムシュテット氏の音楽が特別なのは、年齢を超えた「成熟」と「深み」にあります。

精神分析学家・エリック・エリクソン(Erik Homburger Erikson)の提唱する「発達段階理論」(エリクソンの名前は知らずとも彼の提唱した”アイデンティティの危機”という言葉を知る方は多いと思います)では、老年期は「統合と絶望」という課題に直面するとされています。

自分の人生を振り返り、その歩みを受け入れることができれば、そこに「達観」と「円熟」が生まれます。逆に、過去を悔いるばかりでは「絶望」に陥る可能性もあるのです。

ブロムシュテット氏はこの「統合」の模範例といえるでしょう。老年期の星です!

長い音楽人生で積み重ねた経験を昇華し、音楽として表現することで、多くの人々の心を動かし続けています。その姿は、「老境の新たな可能性」を切り開き、年齢を超えた成長の在り方を私たちに示してくれます。


音楽と人間性が教えること

ブロムシュテット氏の存在は、私たちに次のような教訓を与えてくれます:

  • 「人生に期限はない」
    人間は年齢に関わらず常に成長し続ける存在であることを彼は示しています。

  • 「老いは衰えではなく深化である」
    音楽の深みは、長年の経験と洞察を経たからこそ生まれるものです。

  • 「共に作る喜び」
    オーケストラという集団で音楽を紡ぐ指揮者の役割は、他者と協働する人生の意義を象徴しています。


シューベルトの交響曲第9番「グレート」に込められた人生の美しさ


ヘルベルト・ブロムシュテット氏がチェコ・フィルと共に取り組むのは、シューベルトの交響曲第9番「グレート」です。

この大作は、シューベルト自身がその生涯を見つめ直し、未来へと希望を託した音楽とされています。広がりのある旋律と躍動感は、人間の無限の可能性を感じさせ「人生の壮大さ」を体現する作品です。一方、この作品がもつ「デモーニシェ(悪魔的)な美しさ」は、シューベルトに迫る死の影をもくっきりと描き出します。

97歳という前人未到の高齢で人生の統合を迎えた指揮者が、この壮大な音楽を指揮するという事実そのものが、私たちに大きな勇気を与えてくれます。年齢を理由に「できない」と諦めがちな現代社会において、ブロムシュテット氏の姿は、挑戦に終わりがないことを教えてくれるからです。

シューベルトの晩年の作品に、ブロムシュテット氏の深い解釈が加わることで、聴衆はその壮麗な響きに人生の意味と希望を見出すことでしょう。音楽は年齢も限界も超えた力を持ち、それは私たち自身の可能性にもつながります。

どんな年齢でも、今からでも「グレート」な自分に出会うことができる――ブロムシュテット氏の姿とシューベルトの音楽が示すその可能性は、きっと私たちに「これでいいんだ」と前に進む力を与えてくれるはずです。

            Herbert Blomstedt | Picture: Martin U. K. Lengemann

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