教師が不登校の生徒に悩んでいるときに読んでほしい本⑩言わない、ではなく言えない。自分の気持ちの言語化が苦手な子ども
・自分の気持ちの言語化が苦手な子ども
例えばこういう経験は多いと思います。
不登校または休みがちな生徒Aさんにやっと会うことができました。先生であるあなたは、何かしら質問しますが、なかなか本質的、具体的な答えが返ってきません。例えば、あなたが「なぜ学校に行きたくないの?」と聞いても、Aさんは「なんとなく嫌だから。」と答える。あなたが「何か嫌なことがあるの?」と聞いても、Aさんは「わからない」と答えるため、教師や親は一歩も前に進めないように感じてしまうような経験です。
このように返答がはっきりと返ってこないのは、本人が先生に言いたくないのではありません。本人にも自分の気持ちが分からないのです。
このように中学生であっても、自分の気持ちを言語化ができない子どもがいるということを教師が知っておくことは大切だなと感じます。このような子どもは、大人が「それはこういう気持ち?」それが違うのなら、さらに「じゃあこういう気持ち?」と本人の気持ちが当てはまるような言葉を探していくことで、本人が自分の気持ちを発見していくのです。
このように生徒が自身の精神状態を言語化できないとき、私は不登校について考える経験を通して、三つの原因のどれかを考えるようになりました。
一つ目は、それまでに自分の気持ちを言語化した経験が極端に少ないので、言語化の力が育っていないのでないかということです。先生が「学校の何が嫌?」と聞くと、本来は「学校の体育の授業のときに苦手な種目があり、みんなに笑われそうで怖い。」など、”その場面でこの感情が生まれる”、と表現すべきところですが、言語化が苦手な子どもは「全部」と答えるというようなケースです。ただ「学校が何となく嫌」は多くの不登校傾向の子どもはずっと言いますが、これ以上に色々な場面においても自分の気持ちを表現できない子どもは、言語化の力が育っていない、と私は見立てます。つまり、それはその力が育てば、自立していく可能性が期待できるということでもあります。
人間という生き物は、本来本能と感情によって生きてきた哺乳類の一種に過ぎません。しかし、進化の過程で言語を発達させることで、感情に特定の単語を結びつけることで、ラベリングして、感情を処理する術を身に付けてきました。
要するに、言語化の力が未発達の子どもは何かあったときに、恐怖感や「嫌だ」という嫌悪感だけで頭がいっぱいになり、本人がそれを言語化できないために、自分自身がそう感じていることを認めて客観視すること、そしてこの感情をコントロールすること、その感情を生み出した原因をなくして問題を処理することができないのです。感情の処理能力も未熟だといえます。例えば、このような子どもは「学校が嫌だから、学校がこの世からなくなるまで家にいる」などと矛盾だらけのことを言ったりします。
二つ目は、それまでの感情を本人が無意識に抑圧してしまっているのではないかということです。経験上、何か質問をしても「別に」という返答ばかり返ってきたり、「好き」や「嫌い」(特に好きの方)が本人の口から出てこない、「楽しいことは眠ることだけ」のような発言がある子どもです。感情が鈍化している状態です。このケースは本人が「本当は、感じて認めるのが辛すぎる感情」、極度の孤独、悲しみ、満たされない承認欲求への辛さに心が耐えきれなくなった結果、心の奥に本心を閉じ込めてしまっているのではないかと考えます。よってこのような発言を繰り返す子どもは、学校に通えている状態であっても、私は潜在的な不登校傾向と見て、その原因を探っていくことにより不登校になることを防げるのではないかと考えます。
三つ目は発達障がいにより言語力、語彙数が少ないのではないかという理由です。ただこの場合も個人差があります。そして、発達障がいだからといって、今後の成長はできないと決めつけて支援しないのではなく、本人に合わせたペースで言語化を支援していくとよいと思います。経験上、特に中学3年生に上がる頃に、それまでの特性や困り感が突然なくなることが多々あります。
これら三つの原因のうち、その子どもがどれに当てはまっていたとしても、障がいのあるなしも関係ありません。結局は、本人の発達のペースに合わせればいいのです。
支援者が本人に寄り添って、本人の感情を汲み取ってやり、「こういうことをされたから嫌な気持ちになったんだね」などとこちらが言語化の手助けをしてやることが、本人の感情のコントロールと感情処理の発達を促すことになると思います。例えば、生徒が先生のもとに駆け込んできて、バラバラに話す事柄を先生が時系列に整理していくようにです。
つまりは、さきほどの「子どもが、自分の話を聞いてもらえる安定した支援者」がいるかどうか、が言語化の力の発達にも大きく影響してくるということです。