アンディ【ショートショート】
入院病棟の、ナースステーションに近い個室は、重病の患者が入る。一秒でも早く、駆けつけるためだ。認知症などで、目が離せない人もいる。
9号室の男性は、後者だった。
部屋入口のネームプレートに『ご利用者様』とある。
路上で倒れていたところを運び込まれ、自分の名前も住所も覚えていない。
唯一の持ち物は、空っぽのトートバッグだけだった。
「おはようございます。清掃に入ります」
清掃員の明美は、いつものようにモップで床を拭いていた。
70歳になったばかりの明美は、この名無しさんを自分のことのように感じていた。年齢が近いこともあるが、明美も好きな絵だったのだ。
トートバッグの絵がマリリン・モンローの顔だった。あの有名なアンディ・ウォーホルの絵だ。
明美は秘かに『アンディさん』と呼ぶことにした。
ある日、アンディさんがベッドの上で、上半身だけ起こしていた。
(お元気になられて、よかった。退院後が心配だけど)
と案じながら、床を拭いていた。
「いつもありがとう。あなたの名前はなんというのですか」
はじめてアンディさんに話しかけられた。
「はい。宵野明美と申します」
「明美さん、少し話してもいいかな」
明美は、廊下とナースステーションをチラッと見て、誰もいないことを確認した。
「はい。なんでしょうか」
「北海道のある牧草地に、大きな樫の木が一本あります」
「樫の木ですか」
「そこの石垣の下に、あるものが埋めてあります。ぼくがここを出たら、その場所へ行って、その缶を掘り出してほしい。メキシコのジワタネホという海岸を知ってるかい? そこが約束の地だよ」
「……」
明美は、思いきって訊いてみた。
「まさかとは思いますが…
海岸の近くにホテルを開くんだ。古いボートを買って修理し、客をのせて釣りに出る。とかじゃないですよね」
彼は驚いて、目を輝かせた。
「明美は察しがいいな。調達屋が必要になるだろう」
いつの間にか、呼び捨ての仲になっている!
それよりも明美は、映画のタイトルが出てこないことに、イライラした。
「そ、その映画は…」
明美は、自分がモーガン・フリーマンだとわかっている。
そうだ! レッドだ!
調達屋のレッド!
名無しの彼は、ニヤニヤして明美を眺めていた。
イライラ・ムズムズしている明美の背後から
「回診でーす」
看護師と医師が入ってきた。
明美はハッとして、モップを動かしながら、「ありがとうございました」と言って部屋を出た。
その後も清掃をしながら、考えていた。
壁のポスターはリタ・ヘイワースにマリリン・モンローだ。
屋上でビール。あのシーンは最高だった。
モーツァルトの『フィガロの結婚』がかかるんだ。
こんなに覚えているのに…
肝心の、タイトルがああ!!!
明美は、お昼ご飯を食べているとき、思い出した。
主人公の名前は…
「アンディ!!!」
(了)
はじめて、ショートショートを書いてみました。
映画『ショーシャンクの空に』を知らない人は、ごめんなさい。
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