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人はライバルがいないと成長できない生き物ですか? 書道VS書道他校VS合気道!こどものお稽古、全国順位にて地域首位独走で、師範代のお勤めして最年少日本一へ

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追いかけてきたライバルは合気道でしたね。
(写真は、合気道の開祖・植芝盛平、合気道の奥義です。)

* 植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年(明治16年)12月14日 - 1969年(昭和44年)4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。

ぼく書道なんだが!?
ライバルがいると、生きる気力が湧きます。
お稽古では、(教室の中だと)師範が一番強いですが、それは先生です。
やはり、同い年の他校生などは、とてもいい刺激になります。
(同じ流派)書道協会の書道誌によれば、他校生の成績の近いの子たちの名前をたくさん見かけますから、意識します。
ぼくも、お稽古はじめた頃は、大変な落ちこぼれでした。
近郊の学校の子たちに、「追いつけ、追い越せ」でがんばりました。
幼馴染「置いてくな!お前をずっと追いかけていた・・・。
月〜金稽古の数時間を、なるべく濃縮して練り上げていた。」
幼馴染の護衛「主人を追いかけてましたね。ライバルとして認めてもらいたくて。
でも、主人はあなたと対戦したいようだ・・・。流派が違うのに。」
他校同級生「書道誌で名前を見かけたときから、運命的に意識していた。名前が似ていたし、隣の学校で近かったからね。全国順位で追い抜かれてからは、どれだけ自主練習を励んだことか。土曜の稽古だけでなく、帰ってきてからも家で暇があれば書道の自主練をしていたよ。」
幼馴染「しかも、同じ週に師範代になったしな。」
ぼく「あれにはびっくりしたよ。師範代だよーて、ハモったもんね。」
幼馴染・他校同級生「ところで、地域で首位独走のお前は、誰と戦っていたんだ?」

ぼく「んー、はじめは他校同級生を追い抜くことが目的だった。土曜稽古だけだよ。家でも自主練やろうとしたけど、弟妹が遊んでって絡んでくるから無理だった。だから、お稽古場であるあの空間こそが、真剣勝負だった。そのうち、過去の自分と戦っていた。先週の自分の書はなかなかやるなあ・・・、とか。今週もいい書を書き上げるぞって、毎週乗り越えていた。」
幼馴染「天然かよ。自分はお前と戦ってた間、お前は自分と戦ってたわけか。」
他校同級生「どうりでな。追い越せないはずだわ。」
幼馴染の護衛「主人、これは一本取られましたね。」
ぼく「いつのまにか日本一になってたよ。」
他校同級生「だがでかした!日本一取ってくれたおかげで、両親から『お前、地域で万年二位だな』なんて言われてきたが、戦っていた相手が日本一だったよ。地域では二番だけど、自分の努力は認められたんだ!両親からも『そうだったのか、なかなかやるな〜お前、ものすごいがんばりだったもんな!』って言ってもらえたから!」
幼馴染「お前を追いかけてたら、こっちまで日本一なんだが。重ねていう、置いていくな!」
幼馴染の護衛「主人が稽古場で一番カッコ良いんですが、それを錬磨したのはあなただ。」

回答。

遥かなる実力の持ち主である師範(先生)に稽古をつけてもらって、他校の同級生たちと、全国順位を争うにあたり、ライバルがいた方が(苦しまず楽しく)錬磨されます。
春の大会では、無差別級が開催されるので、他の学年の同じ稽古場の子や、よその強者とも一戦交えれます。
作法を覚えた後でしたら、ライバルがいたほうが成長は早いです。ですが、己を見極めるところまで進むと、他のライバルはいらなくなります。自身の最強のイメージこそが、道と言うお稽古を歩ませます。
そして、師範には、(10段以上の)師範たちが集うお稽古場があり、師範たちの師範(50段相当)がいて、さらにその上に、書道協会を運営する「選定眼」を持っている長老たちがいます。長老たちは、毎月全国の参加者の何万件もある書を、20分足らずで看破すると言います。

上には上がいるのです。

そして、この日本一も同じ流派内の無差別級に過ぎないのであって、他流試合の御前試合ではないので、日本頂上決戦ではないのです。
日本一になった時、東京の合同式典で、幼馴染とぼくは、自身の師範とともに招待されました。ですが、これをボイコットします。「ぜひ会いたい、一目会いたい」異種流派のお稽古の長老たちが一同に集まり、今年の成長を祝って賑わいました。地元ではこれを、後継者として青田買いされる恐れがあり、断る意向を示します。師範と師範代二人で行って、帰りは師範が泣いて一人で帰ってこないといけなくなるのを、未然に防ぐことが決議されました。
(おしまい)

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