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カラーフィールド展@DIC川村記念美術館


「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」DIC川村記念美術館


ゴールデンウィークの某日、千葉県の城下町・佐倉にあるDIC川村記念美術館を訪れました。米国で1950年代末〜1960年代半ばにかけて隆盛をほこったカラーフィールドの絵画です。

作品も展示もすばらしかったです。

カナダのマーヴィッシュ・コレクションに含まれるカラーフィールド絵画を中心に約50点の作品が展示されていました(展示作品リスト)。

オードリー&デイヴィッドのマーヴィッシュ夫妻は、評論家クレメント・グリーンバーグと交際があり、そうしたなかでコレクションを進めたのですね。

トロントを中心に劇場、不動産などの事業を展開するマーヴィッシュ家は、グリーンバーグ先生と同じリトアニア系ユダヤ人の出自をもつようなので(ウィキ情報)、跡取り息子であるデイヴィッドさんとの家族的なつながりもいろいろとあったのかな、と想像が広がります。ニューヨークとトロントは近いですしね。

とまれ。連休のあいまに遠出して、本当によかったな、、と、灼熱の太陽のもと、芝生でお弁当を広げながらつくづく感じいったしだいです。




実際に展示室で作品をじかに鑑賞できてよかったのは、端的に、展示されていたカラーフィールドペインティングの「巨大」さを体験できたこと、であるような、気がします。

どれも、でかい、です。
少なくとも2メートル越え。*展示作品リスト

単純なのですが。。

もちろん、たとえば、作品を高画質プロジェクターなどで投影したりすれば、画面のヴァーチャル体験は可能でしょうが。モノのもつマッスとヴォリュームを空間的な巨大さのうちに享受するのとは、やはり体験の質に異同はあると思います。


というよりも。
レム先生的な、ビッグネス、でもないのですが。
カラーフィールドの絵画の場合、鑑賞者側のオールオーヴァー的な体験以上に、制作側にとっての物理的な「大きさ」は、やはり本質的である気もしたからです。


カラーフィールドペインティングが特徴とする、色彩、色面の実験は、アトリエも、道具も、絵具も、キャンバスも、物理的性質や物理的特徴を前提としつつ、そこで物理的、質的、環境的、大気的、時間的、その他の条件や要素などなどがあわさり、無数の可能態のもとに、画面として現象していきます。

様々な要素や事象の相互の関係性が創造を志向するのであれば、おのずと実験の場(フィールド)は物理的に大きくならざるをえない、もしくは、変更不能な与条件を克服するには大きな広がりが必要、と、トートロジー的な想像をします。

拡大/縮小された身体や事象、物質は、原寸のそれらとは、必ずしも同一には存在しえない。縮小も拡大もできない、原寸大でしかありえない現実や、コトやモノ、世界が存在するわけだし、「縮尺(scale)」という制度を疑うことも必要なのではないか。

カラーフィールドペインティングの画面には、データ主義に対する懐疑というか、デジタライズされた世界にいると忘れてしまいそうな、想像/創造の真実が、漂っていた気がします。

ああ言えばこう言う、なのですが。

現代美術の歴史で見れば、第二次世界大戦後のニューヨーク美術の立役者であったグリーンバーグの理論的後ろ盾により、アクションペインティングのネクスト・ジェネレーション的な位置付で、カラーフィールドペインティングはつかのまの隆盛をほこったとされています。

いっぽう、事業家であるマーヴィッシュ家のデイヴィッドさん、1963年~75年の間にトロントで、カラーフィールドを中心とするアートギャラリーを展開していたそうです(ウィキ情報)。

評論家と、ギャラリスト、コレクターの蜜月時代です。経済的に見れば、美術投資と大型化に相関関係もあったかもしれないし、もしくは、東西冷戦下においてアート作品の大型化が政治的ヘゲモニーと結びついたのかなあ、という、かってな妄想も広がります。アメリカは大きい、というだけなのでしょうか。


ともあれ。
時間の経過によって、カラーフィールドの明るい画面そのものを理屈ぬきに楽しめる時代を迎えられたのは、幸福だと思います。USA、NY主義の真ん中にいた戦略家グリーンバーグ先生のくびきからのがれたからなのかなと、思いつつ。

絵画の魅力を入口に、フォーマリズムとか、マイケル・フリードの芸術と客体とか、モダニズムとかポストモダンとかの英語の論文を、読み返すのも、おもしろいかなあ、とほこりっぽい本棚の一隅に触手がのびた瞬間、わたしの頭ではイミフメー、、的によんでいた学生時代の記憶が、脳裏をかすめました。。

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