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魔の山 第七章「ひどくいかがわしいこと」

第七章「ひどくいかがわしいこと」・・・降霊会でヨーアヒムを召喚

最も、コメントの仕辛い章節にやって来た。トーマス・マンとんでもないものをぶっ込んで来たなと思われた人も多かろうと思う。
このコメントは、少々、他の節の感想とは異なり、大いに眉に唾して読んで貰いたい。

クロコフスキー医師の講演会は、傾向が変わり、精神分析学や超常現象の話をするようになった。そこにエレン・ブラントという少女が入院し、千里眼やテレキネシスの能力を見せた。医師は彼女の調査を開始し、まず「こっくりさん」で彼女の守護霊との会話を試みた。それが発展し、少女を霊媒とする交霊会を催した。カストルプは一端この会からは離れるが、死者の誰を召喚するかとなり、前節で馴染みの曲の中の一曲、ヴァンティンのアリアを聴いていたハンスは、思いついてヨーアヒムを呼ぶことを提案。少女が呻吟苦悩する(陣痛の苦しみに似た)こと数時間の後、ヨーアヒムの姿が現れた。ハンスはしばらく凝視したのち嗚咽、霊に話しかけることを要請されたが、決別として部屋の明かりをつけ、医師に威嚇するようにうなずきかけ、部屋を跡にした。

僕は、トーマス・マンの抜かりなさを感じる。「生」と「死」、肉体と精神の一端を示して、それを問うのではなく、ある種、体系的にかつ網羅的に、すべての面から、追求しようとするマンの凄さを感じる。思想を語り、政治を語り、宗教を語り、病気、そして死を語り、文学、哲学、音楽の芸術を語る。どこまで、フロイトの精神分析学が影響(潜在意識)しているのかは分からないが、集合無意識のユングは、トーマス・マンに影響したのだろうか、「魔の山」の舞台ベルクホーフはスイスだし。
キリスト教の神と精霊、そこには、触れないけれども暗黙に、霊的存在はあった。仏教においても、輪廻転生を言い、成仏そして、空海の密教、あれは降霊技法に他ならない。空海と最澄の差は、そこにあった、霊能力までも範疇とする空海と、飽くまで学術として学問として仏教に対峙した最澄。空海は、最澄の限界が見えていた。※すみません、脱線しました。空海スキです。

肉体=「生」、精神=肉体に関わらい純粋精神=「死」
「死」を超越した精神、肉体を持たない「生」、そこに「霊的存在」がある。

この章節をどう捉えるか、読者の在り様で見解は、明確に分かれると思う。科学で検証(再現性)できないものは、存在しない、というのは、信仰、偽神(新たな神)である。また、絶対に存在すると言い張るのも、またそれも、信仰、偽神だろう。この章節を読むにあたって、マンは、どっちの立場だろうと思って読み進めた。あるともないとも言明しない、ただ、現象を描写しているだけだった、流石だ。
ハンスが、部屋の明かりをつけ、退出したのを、オカルトを否定したと解釈したがる人もいるが、僕はヨーアヒムに対する想い(悔い)に決別したのだと受け取った。頼ってはいけない。
霊的存在の有無の是非など、どうでもいい話なのだ、読者に委ねている。

「こっくりさん」は、西洋が起源、テーブル・ターニング(Table-turning)というらしい。1970年代には、つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』で、ブームがあり、姉がやっていた。実は、僕も姉からやり方を教わり、中学二年だったと思うが(誰とやったかは憶えていないが、場所を憶えていてそれで時期が分かる)やったことがある。感覚としては、お互いに自分ではない誰かが動かす一円玉を指で追いかけていく感じ。そして、僕は懲りた(ハンスと同じ反応?)。霊を呼び出せた、少女の霊だった。自分の、または仲間の誰かの潜在意識から、答えが出るのだろうと高を括っていたのだが、予想の斜め上を行く、自分たちの潜在意識からは決して出てこない返答があり、これはアカンわと悟った次第。

ヘーゲル、ニーチェの後の正統は、マルクス、サルトル、ハイデガーへ行く流れなのだろうけど、僕は、ユング、アドラー、そしてニューエイジ(トランスパーソナル心理学)の方へ流れて行ったので、敢えてあるともないとも、言明しない、宇宙人いないという証明できない以上いないとは言えないし、見ていないので(見たとしても、自分の認知に懐疑的であるので)いるとも断言しない、そんな感じ。
アニメ「ダンダダン」を観ている年金生活老人である。まあ、そんなことはどうでもいいが・・・
ひどくいかがわしく、一挙にこのブログの読者を失ってしまったかも・・・(くれぐれも眉唾でお願いします)


あなたの意見をお訊ききしたいのは、霊的存在の有無の是非ではなくて
ヨーアヒムを見たカストルプが何故、部屋の明かりをつけ、退出したのか? ということ


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