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デミアン 第一章「二つの世界」

 私(シンクレール)が、10歳でラテン語学校に通っていたころの体験から物語は始まる。そこには、二つの世界が交錯していた。一つの世界は、父の家であり、家族は父母と姉がおり、信心深く、信仰により明るく保たれていた。一方、もう一つの世界は、すでに私たち自身の真ん中で始まっており、女中や職人の弟子がいた。外の世界、特に女中からもたらされる世俗の話には、悪と暴力とが広がっていることを漠然と感じていた。

 近所の友達と連るんでいると、悪い評判しかない上級生の仕立て屋の息子フランツ・クローマーが後からやってきてグループを乗っ取った。私(シンクレール)は不安から、大袈裟なリンゴ泥棒の嘘話を捏造し、吹聴してしまう。そして、その真偽をクローマーに疑われ、「天地神明にかけて」と、宣誓させられてしまう。

 リンゴ園の主人が懸賞金つき(2マーク)でリンゴ泥棒を探していたと、クローマーに脅され、密告したくなければと強請られてしまう。仕方なく家からお金を盗んで支払うと、さらに家の金を盗んでいることを弱みに、要求はエスカレートしていく。そして、誰にも相談できず、ついには塞ぎ込み体調も崩し家族を心配させる。精神錯乱になり、詰問した父に対して、私(シンクレール)は口をつぐんで冷ややかに構えた。

まあ、素直に読めば(キリスト教的世界観からは神と悪魔の)善と悪の二項対立に見えてしまう。それは、そうなんだが、ここで、ユングの「個性化の過程」を当てはめてみたくなる。
一つの世界(父の家)は、自我意識中心の世界。人は、誕生し、成長し、社会に伍していくため、ひとつの態度を選択して行く。そして、それに反対するものを切り捨てていく。
ところが、切り捨てた筈の自己の残りの部分が、誰かの言動に不合理な苛立ちや嫌悪感を感じる時などがそうだが、それが、影(シャドー)となって、襲い掛かってくる。

クローマーが、私(シンクレール)のとして、現れたのだと思う。

気付かれたかどうか、分からないが、私(主人公)の名前が、「エーミール・シンクレール」ということは、ここまで(第一章まで)、一度も語られない。私小説形式であることも勿論その一因ではあるが、通常、冒頭で名乗ったり、会話の中で、呼びかけられたりするものだが、巧妙に避けられているような気がする。自我の中に没入している状態を顕しているという仕掛けなのだというのは、深読みし過ぎだろうか?

クローマーが、だとしたら、デミアンは?、シンクレールの自己からの視点なのかと・・・


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