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【東京の茂み100選】4:愛の遺構へ/和田倉門界隈(千代田区)

【シリーズ 東京の茂み100選】
都会の片隅に、人目を避けて密やかに存在する空間=“茂み”。
気心知れた仲間と語らう"茂み"、人目を忍ぶエロスの"茂み"、自分に向き合う"茂み"、身内の耳を避けるための"茂み"…。
今日もまた “茂み” を求めて、喧騒のキワを彷徨する ── 。

丸の内での庶民のふるまい

クリスマスシーズンの訪れと共に爆裂に混み合う、都内有数の《イルミネーションスポット》丸の内。年始も過ぎてだいぶ落ち着きを取り戻したが、未だ金曜の夜や週末にはカップルや若者が押し寄せる。

(高級)アパレルや(高級)飲食店が並ぶ「仲通り」で購買欲と食欲を優雅に満たしてなお満ち足りないのは私が庶民だからである。ワインはもういい。お茶割り(缶)がいい。だがもう11時近く、神田や有楽町に移動する気力もない…。
そんな時、庶民(1人)は仲通りのベンチで飲み始めるが、人の目もあるしね…という。今回はそんなShyな庶民(カップル)向けエントリである。

「新丸ビル」(左)と「丸ビル」の間を東京駅に向かって伸びる行幸通り。

丸の内から東京駅を背に行幸通りを歩くとぶつかる外堀通り、その交差点の向こうに、小粒だが印象的なあずまやが左右にあるのに気づくだろう。

あずま-や【四阿・東屋・阿舎】
四方の柱だけで、壁がなく、屋根を四方に葺きおろした小屋。庭園などの休憩所とする。

広辞苑 第5版
和田倉門交差点。写真左から右手前に外堀通り。皇居の石垣と濠が連なる。
なお、オフィス街である丸の内側(駅側)に対して、皇居しかない「あずまや」側は露骨に歩行者量が少ないので、時間を誤らなければかなり落ち着いて過ごせること間違いない。
「あずまや」。石アーチは旧「丸の内八重洲ビルヂング」(三菱地所/藤村朗設計、1928)のソレを彷彿とさせる。この地域ゆえに成立している姿か。
ほど近くの旧「帝国ホテル」(1923)を設計したライトっぽくも、その弟子で丸の内(三菱地所)と縁深いレーモンドっぽくもある。

銅板葺きの屋根・石造りという重厚な佇まいに、幾何学的な意匠となかなか凝っている。これが超都心にありながら密やかなふたりの時間を実現する今回の”茂み”である。

ウエディングフォトのメッカ

丸の内界隈、殊に行幸通りはウエディングフォト撮影の聖地で、Instagramの#東京駅前撮り」タグは8.1万件#丸の内前撮り」は6.9万件に及ぶ。

定番の「駅正面スポット」では、新郎新婦と写真家が平日も晴雨を問わず撮影待ちの列を成す。みんな年次有給とキャンセル料という代え難き”金融商品”を背負っている。

行幸通りは全長わずか190mしかないが、この短さの中で、赤レンガ建築の異国情緒あふれるカット、緑豊かな皇居、超高層ビル群を背にしたシティポップなカットも撮れるという、時間・労力の双面から超コスパのよいフォトスポットなのだから、それは重宝されよう。

あずまや、秘めたる愛の建築

言わずもがな、あずまやも行幸通りセットの「ウエディング名所」なので、時間を誤ると(~20時前後)激アツ撮影に遭遇する。微妙な時期のカップルには毒である。「結婚しなくても幸せになれるこの時代」に結婚する理由の7割はプレッシャーなのだ(当社調べ)。
あくまで、ラストオーダーを過ぎに、周囲のビルの明かりが消え始める中でひっそりエントリーしてこその ”茂み” であることを忘れないでほしい。

このあずまや、石造りながら閉塞感なく、人物を夜景に浮かび上がらせる抜け具合といい、映え目的で建てたモノより秀逸であることが分かるだろう。

写真より生の方が衝撃的に奇麗なので、冬の間に訪れてみてほしい。

愛の空間×あずまやといえば、やはり映画『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)に登場するトラップ邸のガゼボ(西洋あずまや)となる。
この建物はドイツ・ザルツブルグにある宮殿の庭にあったものだが、映画の反響を受けて人びとが訪れるようになったので、同ザルツブルグのヘルブルン宮殿の庭(公園になっている)に移築され、観光名所となっている。

ロルフ(左)、リーズル(右)、あずまや(右奥)。
映画『サウンド・オブ・ミュージック』(ロバート・ワイズ監督/20世紀フォックス)より

考えてみると新海誠の『言の葉の庭』(2013)も要はあずまやの話で、結局あずまやとはそういうシニフィエ(ふたりの世界とか秘めたる愛)の表象たる建築様式なんだァという。
多少勉強された方にとっては果てしなく自明な話のはずで、あずまや=逢引きの空間、という小説や戯曲は幾らでもあると思うが、無学ゆえこの程度のレファレンスしかないので勘弁してください。

映画『言の葉の庭』(新海誠監督/東宝)ビジュアルより


あずまや、あずまやではなかった

…で、丸の内の話に戻すが、結論から述べるとこれはあずまやではなく、「元宮城和田倉門守衛所」というものだった。

そしてこの建物、驚異的に資料がない。皇居という近現代日本の聖地のような場所にあって、碑や建物の名称を示す説明書きは一切ない。皇居外苑のWebサイトも情報が希薄すぎる。

とりあえず「丸の内の郷土史」たる『丸の内百年のあゆみ』を開いてみよう。1993年に編纂された三菱地所の社史で、一部のデベロッパーファンに熱狂的に支持される書籍である。ここに、行幸通り計画の記述がある。

東京駅前の幅員40間(約72m)道路は、明治22[1889]年の市区改正委員会案により東京中央停車との関連で計画されたものである。三菱では大正2[1913]年8月19日この道路敷4,405坪余を市に提供(中略)この道路は堀の手前で行き止まりになっていたが、これを堀の向こう側まで延長することができれば、東京市としても三菱としても好都合であった。そこで6[1917]年8月18日、当時の地所部専務理事桐島像一(注:しゅういち)は、内務省東京市区改正委員長水野錬太郎宛てに「東京駅前40間幅大道路延長に付意見書」を提出した。すなわち二重橋と東京駅の間を40間道路で直結すれば「宮城より東京駅に至る間の御行列等に極めて便利に且つ荘厳を加うべし」との意見具申であった。

『丸の内百年のあゆみ/上巻』(三菱地所、1993)p.300
※[西暦]の付記は筆者による。

行幸通りのグランドデザインは三菱によるものだったのである。
この計画は実現に至らず、そのうち関東大震災が起きる。その後、

東京市では震災復興事業の一環として、震災で壊れた警視庁等の建物の瓦礫でこの堀を埋め立てることにした。(大正)13[1924]年8月に着工したが、ここは江戸城最後の堅固な防禦線だけあって堀が予想外に深く非常な難工事となり、わずか40間四方の埋立てに2年の歳月を要し、ようやく(大正)15[1926]年8月に竣工した。これが現在の丸ビル・新丸ビル間の大通りであり、「行幸道路」といわれる所以である

『丸の内百年のあゆみ/上巻』(三菱地所、1993)p.301
※[西暦]の付記は筆者による。「行幸道路」は当時の呼称。

江戸城最後の堅固な防禦線』たる二重橋の濠に、当時の交通の最要所である鉄道駅から70m幅の道路をストレートにブチ込もうというのだから、天皇の行幸(≒利便)のためとはいえ思い切ったものだ。
この「守衛所」はこの際に建てられたものらしい。小さくも堅牢な佇まいは、宮城の「最終防衛ライン」を担うものとしての役目があったわけだ。

左奥側が皇居。右奥にパレスホテル。


歴史を見守る《愛の空間》

行幸通りは1926年8月に開通した。『宮城より東京駅に至る間の御行列等に極めて便利』との触れ込みだが、予てより体調不良の大正天皇はこの月、静養のために葉山御用邸へ移り、同年暮れに崩御されたので「ご行幸」は叶わなかったはずだ。

戦後、丸の内界隈は片っ端から進駐軍に接収され、郵船ビル、東京海上ビル、三菱商事ビル…等、外堀通りと行幸通りの交差点を囲む建物は連合軍施設となった。そういう神域のオモテウラがひっくり返る動乱をも、この小粒な守衛所は見守っていたに違いない。
そして今日、愛の表象空間となるとは分からないものだ。分からないものではあるが、やはり建築というのは妙に骨抜きになって保存されるくらいなら、もはや元の文脈なぞ消失しても、いっそバキバキに使われまくる方が時代を超克し得る耐力となるな、と思わざるを得ない。

このあずまや…もとい守衛所だが、一昨年(?)コロナ禍の都民割で東京ステーションホテルに泊まった際、フツーに寝るのも勿体ないと思い、深夜に散策に繰り出した際に見つけたのが縁である。その時、夜の闇と小雨の中で浮かび上がる姿が(これまでに何回か見た中で)一番美しかった。
このふたりの空間を我が物にできる超絶な ”茂み” 、一度訪れて頂きたい。

【東京の茂み100選】-5- に続く(超不定期連載)


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