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短編小説「パリ左岸の夕陽⑥」

親父の目は憂愁の色で湛えられていた。そんな目で見つめられることに、私は耐えられなかった。

「仰っている意味が分かりませんが」

「そのままの意味だ。お前にこの店を譲りたい」

「それはどうして?」

「俺がお前の父親で、お前が俺の息子だからだ」

「答えになっていません」

「これ以上の理由がいるのか?」

「私はあなたを父親だと思ったことはない」

私は親父を冷たく睨み据えて言った。

「私のことをどう調べたのか分かりませんが、あなたにこんなことをしていただく義理はない。私を哀れむためにここへ呼んだというのなら、私は帰らせていただきます」

「お前、何か勘違いしているんじゃないのか?」

「は?」

「俺はお前を哀れんでなどいない」

「嘘だ。あなた、さっきから私を哀れみの目で見ているじゃありませんか」

「違う」

「違わない。あなたは私を哀れんでいる。いや、実際には、哀れんでいるフリをしているだけだ。私が落ち目になったと聞いて、腹の底で笑っているんじゃないんですか?」

「違う」

「だったら、そんな目で俺を見るなよ」

私は拳でテーブルを思い切り叩き、声を限りに叫んだ。それは感情の発露というより魂の慟哭に近かった。理性の下で長らく抑えられていたものが堰を切って飛び出した感じだった。

人間とはつくづく身勝手な生き物だと思う。

私は親父を裏切った背信者でありながら、そのことをすっかり忘れてしまって、感情に任せるままに父を罵ったのである。

この時、私の理性は四十男の成熟さを失って、少年のアンビバレントな情動を取り戻していた。すなわち、父親を軽蔑しながら、その父親に認められたいという、愛憎相半ばする心である。

私は目の前の男を許すことができなかった。そして、それ以上に、その男を超えようとしながら超えることのできなかった自分を、許すことができなかった。

私は完全な敗北者だった。

親父は、私が怒り狂っている間も、眉一つ動かさず、黙って耳を傾けていた。その態度が私の怒りをさらに掻き立てた。

「俺はあんたからの施しは絶対に受けない」

「待て」  

ソファから腰を上げようとした私を、親父が手で制した。

「俺がお前をここに呼んだのは、施しを与えるためじゃない。お前に俺の遺志を継いでほしいと思ったからだ」

「わけがわからない。どうして、俺があんたの遺志を継がなくちゃならない?」

「俺の命がもう長くないことは知っているだろ?」

「ああ、あんたの代理人から聞いている」

「俺が死んだ後のことを、お前に任せたいんだ」

「どうして、俺が?」

「お前にしかできないんだ」

「俺があんたの息子だから?」

「ああ、そうだ」

「それじゃ答えになっていない」

「似ているんだ」

「…」

「お前は俺によく似ている」

そう言って、親父は遠くを眺めるような目をした。それは、沢村に飯を食わせた時に見せたのと、同じ目だった。

「お前の同級生に飯を食わせた時のことを覚えているか?」

「ああ、覚えているよ。あの時、あんたは、豚バラでコンフィを作って…」

「そうだ。俺はあれより美味いものを生涯で二度食べたことがあった。一度目はパリの修業時代。そして、二度目はお前の店でだった」

私は親父の言ったことがにわかに信じられず、言葉の接ぎ穂を見失った。親父は構わずに続けた。

「いつだったか、お前に内緒でお前の店へ行ったことがあったんだ。最初は冷やかすつもりだった。俺から黙って離れていったお前を、俺はとても憎んでいた。だが、あの時、お前が作ったコンフィを食って、そんな気も失せてしまった。それは俺が若い頃にパリで出会い、俺が目指した料理そのものだったんだ。そこでやっと気付いた。お前も俺と同じものを目指したんじゃないかってな」

親父はそこで遠い目をするのをやめて、私の顔を見た。親父の目から憂愁の色が消えていた。

「本当に良い料理というのがどんなものだか知っているか?」

私は答えなかった。親父はそれを予想していたかのように後を続けた。

「本当に良い料理というのは人の心を漂白する。人間をあらゆる殺伐とした感情から遠ざけてしまうんだ。そういうのを俺たち人間は…」

「幸福…」

親父がすべてを言い切ってしまう前に私は頭の中に浮かんだ言葉を言った。親父は微笑みを浮かべて頷いた。

「そうだ。本当に良い料理は人を幸福にする。俺も、母さんとパリのカフェであのコンフィを食べた時、とても幸福を感じたんだ。あれこそが、俺の目指すべき料理だと思った。しかし、俺自身は、万人を幸福にする料理人を目指すあまりに、一番幸福にしなければならない人たちを、幸福にできなかった」

「…」

「お前と母さんには本当にすまないことをしたと思っている」

「今更、そんなことを言われても困る」

私は親父を睨んだ。

お袋は私がパリに留学してから半年後に私を訪ねてきた。私の安否を気遣ってのことだったが、元々病弱だったために旅先の病院で亡くなった。母は今際の際に私を枕元に呼んで、「お父さんを許してあげて」と言った。私はその時に思った。魂は言葉によっては救済されないことを。

親父の告白は私の魂を救済しなかった。それは、私の目に、許しを乞い願うエゴとしか映らなかった。

「母さんは苦しみながら死んだ」

「ああ」

「あんたは葬式にも来なかった」

「すまなかった」

「万人を幸福にするためなら、家族を不幸にしてもいいのか?」

重苦しい沈黙の後、親父は答えた。

「お前に許してもらえるとは思っていない」

「なんだよ、それは。まさか、許してもらえると思っていたのか?」

「…」

「何が幸福だよ。 笑わせるな」

私は滂沱の涙を流しながらテーブルを何度も叩いた。親父の傍に立っていた代理人が私を後ろから羽交い締めにしようとした。私は無茶苦茶に暴れて代理人を壁に突き飛ばした。

「俺があんたに似ている? あんたの遺志を引き継ぐ? ふざけるな。俺はあんたにそんなことを言ってほしいためにここへ来たんじゃない! 俺は人生最期の日を迎える前にあんたに罵倒されたいと思ってここへ来たんだ」

「…お前、死のうと考えていたのか?」

「ああ、そうだよ。何が悪い? 俺は何もかもを失った。そんな人間にこれ以上、何ができるというんだ?」

「人間はいつだってやり直すことができる」

「あんたに気休めを言われるとは思ってなかったな」

「どうして、何もかもを失ったと言い切れる? お前にはまだ腕が二本残っているじゃないか」

「…」

「お前は料理で万人を幸福にできると思ったんだろう? その腕がある限り、お前はこれからも人々を幸福にしていける」

「…悪いが、あんたの御託にはこれ以上付き合えない」

私はソファから腰を上げた。足元には書類の束が散らばっていた。私はそのうちの一枚を拾い上げて親父の鼻先に突きつけた。

「この話は聞かなかったことにする」

そう言って私が踵を返したのと同時に、親父が声をかけた。

「分かった。だが、最期に一つ、俺の頼みを聞いてもらえないか?」

「あんたの頼みなんて聞かない」

「俺はもうじき死ぬ 春までももたないだろう。その前にやっておきたいことがある」

「あんたが死ぬことなんか俺の知ったことじゃない。他の奴を当たるんだな」

「いや、お前にしか頼めない。母さんのことなんだ」

私は親父の方へ向き直った。

「お袋のこと?」

「母さんがいつも言っていたんだ。いつか親子三人であのパリの老舗カフェで食事をしてみたいって…あの時、俺が食べた料理を、お前にも食べさせてやりたいんだ」

「そんなことのために、俺はあんたと一緒にフランスまで行かなきゃならないのか?」

「いや、三人だ。母さんの遺骨も持って行く」

「俺はこれから死ぬ人間なんだぞ」

「死ぬ気があるのなら、何だってできるだろう。さっき、お前は俺に言ったな。人生最期の日を迎える前に俺に罵倒されたかったと。悪いが、俺にそんなことをやる趣味はない。ただ、お前の心を漂白することくらいはできる。最期くらい、父親らしいことをさせてもらえないか?」

親父は、私を説得する時に、「幸福」とは言わないで、「心を漂白する」という表現を使った。私は、その言葉で、親父が沢村に飯を食わせた日のことを、思い出した。日々の食事にありつけず、人間らしい愛情にも飢えていた沢村は、親父の作った料理を食べたことで、初めて「幸福」を手に入れた。親父の言葉を借りるなら、あの時、彼は心を漂白されたのである。そして、その時、傍らで彼を眺めていた私自身もまた、親父の作った料理を体内に取り入れ、それまで味わったことのなかった幸福を感じたのだった。今にして思えば、それが私という人間の原点だったのである。

私は親父に背を向けて言った。

「どうせ、お互い、もうじき死ぬ身だ。考えてやらないこともない。ただ、期待はしないでくれ。俺はあんたのことを許したわけじゃない」

「もちろんだ。無理な願いだということは重々承知している」

「もし、行くとしても、それはあんたのためじゃなくて、母さんのためだ」

「ああ、分かった」

私は親父の視線を背中に感じながら応接室を出て行った。店を出ると、辺りにはすっかり夜の帳が下りていた。私は親父の店をしばらく眺めた後で、踵を返し、夜の雑踏へ身体を溶け込ませた。そして、もう二度と親父の店を振り返らなかった。

⑦へ続く。

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