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短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

それから時が経って、夢見がちな少女は大人の階段を上っていった。ただ、ヒロシちゃんの記憶は、季節が色褪せるようには消えてくれず、わたしの中で永遠に消えない十字架として燻り続けていた。

それは母とて同じだっただろう。

わたしが実家を出てからも、ヒロシちゃんからの仕送りは続いていた。通帳に羅列された数字は、何かの暗号のようにも乱数表のようにも見え、それを見る人間を、いたずらに不安にさせた。母は何度となくお金の受け取りを拒否したそうだけど、それは増殖を続けるアメーバのように増えていくばかりだった。

一度実家に帰ったとき、預金通帳を見つめる母を、近くで見たけれど、その横顔は暗く歪んで、不穏な揺らぎが透けて見えるほどだった。そのようにして苦しむ母の姿は見るに忍びなかった。

わたしは、あいまいな記憶を頼りに、夏の夕暮れに訪れたあのアパートを、もう一度訪ねた。12歳に見た時と比べると、辺りの景色はすっかり様変わりしていた。件のアパートは影も形も残っていなくて、その跡地にコンビニや無人クリーニング店が軒を連ねていた。

わたしは、駅前の不動産屋に入って、昔あったアパートのことをきいてみた。

「ああ、あの幽霊屋敷のことですか」

と初老の店員が、思い出すのも億劫だと言わんばかりに答えた。

「幽霊屋敷ですか?」

「いわゆる事故物件ってやつでしてね、誰も住み着かないもんで、ずいぶん前に取り壊しちゃったんですよ」

「誰か亡くなられたんですか?」

「女の人が階段から落っこちちゃってね。かわいそうに。お腹の中に赤ちゃんがいたそうですよ」

「その方、旦那さんがいらっしゃったと思うんですが、今、どちらにお住まいか分かりますか?」

「そういったことは規則で教えられないことになっておりますんで」

わたしは肩を落として不動産屋を出た。そして、その足で、アパートの建っていた辺りを、何となく歩いてみた。櫛比した建物が夏の陽にさらされて、あばたのような陰影を浮かべていた。

わたしはコンビニの前に立って、ぼんやりと霞む頭で、かつて母が言っていたことを反芻した。自動扉のガラスには少女の殻を脱いだ大人の女が映っていた。姿形は大人なのに、眼窩に嵌め込まれた瞳は少女のあどけなさを残したままだった。そのとき、自動扉が開いて、赤ん坊を腕に抱いた女が出てきた。ガラスに映った自分の目に、動揺の色が一瞬ともった。わたしは、逃げるようにして、コンビニから離れた。

それ以来、その街へ行くことはなかった。

わたしは、ヒロシちゃんの幻影を追うのをやめ、自分自身の人生を生きることを、心に決めたのだった。

つづく

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