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短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦
きっかけになったのは一枚の古いポートレイトだった。
紗英とふたりで実家にある母の遺品を整理していたとき、それはまるで春光を待ちわびていたかのように、わたしたちの前にあらわれた。長いこと眠っていたために色と艶が失われていても、そこに映る少女の瞳までは輝きを失っていなかった。
写真には、瀟洒な教会を背景に、祭服に身を包んだ中年の神父と口元を綻ばせて笑う頑是ない少女が映っていた。わたしたちはその少女に在りし日の母を見てとった。そればかりではない。一見すると幸福そうに見えるその少女は実際には幸福を掴みかねているように思われて、わたしは、その消えてしまいそうに儚い姿に、かつての自分自身を重ねたのだった。
写真を画像検索にかけてみると、そこに映る教会は長崎にあるとわかった。わたしたちは、特に示し合わせたわけでもなく、すぐに長崎行きを決めた。
西へ向かう新幹線の中で、わたしは胸に覚えた奇妙な既視感とずっと向き合わねばならなかった。わたしたちは、自分の意志で動いているというよりは、誰かの意志によって動かされていた。それは、以前から感じていた誰かの意志によって生かされているという感覚とよく似ていた。あたかも長崎へ行くことはあらかじめ決まっていて、誰かが書いたその筋書きのとおりに、わたしたちは彼の地へ導かれたのかもしれなかった。
そのことを紗英に話すと、彼女はキリスト教の予定説に似ているわねと言った。それによれば、わたしたちの運命はわたしたちの生まれる前から決まっているのではないかということだった。彼女の言ったことが正しければ、母が生まれたことも、わたしが生まれたことも、あらかじめ決められたことなのかもしれなかった。にわかには信じがたいことだったけれど、わたしにはそれを否定できる根拠もなければ勇気もなかった。
わたしたちを乗せた列車は春の光をかきわけながら九州の西端へ辿り着いた。改札をくぐると、冬の名残を含んだ冷たい風が肌を透かして吹き抜けていった。
長崎という街もまた、歴史の運命にさらされた街だった。神の恩寵というものが本当にあるのならば、多くの殉教者を出さなかっただろうし、原爆の放射能に晒されることもなかっただろう。そんなことを感じずにはおれない何かが、その街には染み付いていた。
写真の古い教会は海辺の漁師町に時代の遺物よろしく佇んでいた。近くには掌の形によく似た美しい湾があって、観光客を乗せたフェリーが光沢を浮かべた海の上を行きつ戻りつしていた。時折、海を渡る風がどこからともなく吹きつけてきて潮の香りをそこかしこにばらまき、その余韻に身を任せていると、自分自身が海の一部になったような感覚が身体の中へ染み渡っていくのだった。
教会は、長いこと潮風にさらされたためなのか、腐蝕と老朽化が著しかった。尖塔の先に設えられた十字架は、往時の輝きをすっかり失って、春の光の中で時折鈍く光るだけだった。
けれど、ひとたび中へ入ってみると、朽ち果てた外観からは想像もつかないほど、荘厳な空間が拡がっていた。わたしたちは入り口の扉の前で思わず固唾を飲んだ。足元に敷かれた赤い絨毯は中央を通って奥の祭壇まで続き、壇上に掲げられたピエタ像を、いやでも見上げなければならない形になっていた。傷ついたキリストと彼を抱きかかえる聖母マリアはステンドグラスから溢れる光のためにきらきらと輝き、それを仰ぐ者たちは神の奇跡を信じないわけにはいかなかった。
聖卓には長衣を着た神父と思しき男性が背中を丸めて立っていた。男の顔にはこれまでに抱えた苦悩を物語るように皺が幾重にも刻まれていた。
わたしたちは堂内の静謐を乱すことのないようにゆっくりと男に近づいていった。ステンドグラスの光は、キリストとマリアだけではなく、男の顔や衣服にも幾何学的な模様を投げかけていた。その模様が淡い光の中でゆっくりと動いたように見えた。
男は母と一緒に映っていた男ではなかった。わたしたちは事情を説明したうえで、男に写真を渡した。写真を見た男は眉をひそめて言った。
「ずいぶん、古い写真をお持ちですね」
「そこに写っている女の子をご存知ありませんか?」
「いいえ、知りません」
男は写真をわたしたちに返した。
「ただ、そこに写っている男性のことはよく知っています」
「差し支えなければ、その方のことをお聞きしたいのですが」
「この教会の責任者だった岩瀬神父ですよ。執務室に写真も残っています。ただ、大方、50年以上も昔のことですから、わたしは一面識もありません」
「そうですか」
「お力になれず、申し訳ありません」
わたしが項垂れていると、隣で聞いていた紗英が食い下がった。
「だったら、こちらで幼い女の子の面倒を見ていたという話は聞いていませんか? 写真が残っているのなら、記録も残っていると思うんですが、見せていただくわけにはいかないでしょうか?」
神父は眉根を寄せて答えた。
「そんなもの、部外者に見せられるわけないじゃありませんか」
「そこを何とかよろしくお願いします」
紗英は頭を下げてそう言った。その時、彼女の首元を七色の光が射し貫いた。うんざりするような長い沈黙の後、神父が根負けしたように言った。
「申し訳ありませんが、部外者に当方の記録をお見せすることはできません。ただ、岩瀬神父の息子さんがこの街に住んでいらっしゃると聞いたことはあります。こちらから連絡すれば、あるいは、お話くらいは聞けるかもしれません」
わたしと紗英は顔を見合わせたあとで神父に向き直った。そうして、七色の光を背に受けながら同時に頭を下げた。少し間があってから、神父の諦めたような声が背中越しに聞こえてきた。
「分かりました。お話が聞けるように、こちらから取り計らってみましょう」
「ありがとうございます」
わたしたちは頭を上げた。見ると、頭上のピエタ像が慈悲のこもった眼差しでわたしたちを見下ろしていた。彼らはそのようにして幼い母のことも見ていたのかもしれなかった。
つづく