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短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑧
ただ、わたしには母がどんな想いでそれを見つめていたのか、いくら考えてみても分からなかった。
一つだけ言えるのは、ここに立った者は、心に溜まった穢れを洗い出され、告白を促されてしまうだろうということだった。わたしがそうだったから、きっと幼い母もそういう想いに浸っていただろう。写真の母が神父の隣で笑っていたのはそのあかしだった。その微笑みは、わたしが知っている、あの作り物めいた笑いではなかった。少なくとも、母はここにいた間は幸福だったのだ。そして、岩瀬という神父は、彼女が心から笑っているところを、何度も見てきたにちがいなかった。
本当の母を知らないわたしにとって、幸福だった母を知る岩瀬神父は、明日へ望みを繋ぐ貴重な生き証人として映った。そうして、彼は、見えない雨が春の雪を少しずつ溶かしていくように、母を覆った氷のベールを少しずつ溶かしてくれるはずだった。けれど、彼はすでにこの世の人ではなかった。幸いだったのは、彼の息子が今もこの街に暮らしていることだった。彼は、父と同じ聖職者の道を歩まず、町役場の観光局で課長の職に就いていた。
そのせいもあるのか、職務に忙殺された彼とは中々連絡がつかなかった。それもそのはずで、わたしたちが長崎を訪れたのは、折しも桜が花をちらほらつけはじめたばかりの季節だったので、役場には観光客が雪崩を打って押し寄せていたにちがいなく、その相手をするのはたいへん骨の折れることだと思われた。それでも、わたしたちは彼に会わないわけにはいかなかった。
わたしたちは、教会関係者の運転する車に乗せてもらって、ほとんど押しかけ同然に町役場へ訪れた。
町役場の中は、古い教会で見た荘厳な雰囲気とは打って変わって、不穏な感情が透けて見えるくらいに殺伐としていた。職員たちは観光客の対応に追われ、息つく暇もなさそうに見えた。忙しそうな男性職員に岩瀬さんのことを尋ねると、課長は誰にもお会いになられませんと、けんもほろろに突き返された。わたしがその剣幕に気圧されていると、気分を害した紗英が食ってかかり、ただでさえ不穏な空気がさらに剣呑なものに変わった。紗英もわたし以上に母のことを知りたいと考えていたと思われ、その熱量が毛穴という毛穴から痛いくらいに伝わってきた。
事態を重く見た別の職員が慌てて奥の応接室へと消えていった。しばらくすると、その職員がまた戻ってきて、わたしたちを応接室へと案内した。
応接室は、ひまわりの絵がもったいつけたように飾られているのを別にすれば、四方をクリーム色の壁で囲み、ソファとテーブルを配しただけの、味も素っ気もない空間だった。ソファには、外国人がかけるような黒縁眼鏡をかけ、猫のように背中を丸めた男が静かに座っていた。男の着ている安物のスーツは、つぶらな目を覆った黒縁眼鏡に全く見合っていなかった。それが岩瀬神父の息子だった。
岩瀬さんに促されるままにわたしたちはソファに腰を落とした。わたしは、懐から、幼い母と岩瀬神父の映った古い写真を、おもむろに取り出した。それを見た岩瀬さんは次第に顔を強張らせた。そうして、眼鏡の奥に覗いた目もガラス細工みたいに光を失っていった。そんなふうに表情を変えてしまう人間を、わたしは初めて見た。
岩瀬さんは、写真に映る母や父親のことを、話したくなさそうだった。けれど、わたしたちには彼の告白が必要だった。彼が重たい口を開くには、しばしの沈黙を待たなければいけなかった。そうして、時計の針が正午を告げた頃、彼はようやく口を開いた。
「わたしの知っている父は、およそ父親らしくない人間でした」
「お父様は聖職者だったとお聞きしています」
「聖職者だからいい父親に違いないというのは、大いなる幻想ですよ」
「お父様はどういう方だったのですか?」
「カーソン・マッカラーズの小説をお読みになったことは?」
「いえ」
わたしがそう言った後で、紗英が透かさず言葉を挟んだ。
「お父様は聾唖者だったのですか?」
「はい。私の父は、喋ることもなければ聞くこともできない人でしたけれど、あの小説に出てくる彫金師みたいにいつも悩める人の声に耳を傾けていました。しかし、父は神と悩める人たちの声を聞くだけで、本当に彼を必要とする人間の声には耳を傾けてはくれなかった。私も母も父を尊敬していましたけれど、心の何処かで寂しさを募らせていました」
わたしは岩瀬さんの告白を他人事のようには聞けなかった。わたしが本当の母親を必要としたように彼も本当の父親を必要としていたのだと思うと、身につまされるものがあった。
「わたしたちがこちらにお伺いしたのは、お父様とこの女の子にどのような関係があったのかをお聞きしたかったからです」
紗英が核心に触れようとしてそう言ったとき、岩瀬さんは、それを予期していかのように、覚悟を決めた顔になった。そうして、今まで誰にも言わなかったであろう真実を、わたしたちの前で告白した。
「ある雪の降る夜に、父が女の子の赤ん坊を抱いて家に帰ってきたことがありました。その子は雪の降り積もる中を教会の前に捨てられていたそうです。よく笑う子だったので、父はその子に恵美(えみ)という名前をつけました。恵美は、自分が望まれない子供だったことを知らされないまま、我が家の子供として育てられたのです。彼女は父のことを本当の父親だと信じていましたし、父も彼女のことを本当の娘のように可愛がっていました。わたしにはそれがどうしても許せなかった」
そこまで言ったとき、岩瀬さんは言葉を詰まらせて、わたしを見た。わたしの中に恵美の血が流れていることを知って、その先を言うのを躊躇ったのかもしれなかった。わたしは岩瀬さんの目を見つめて、その先を促した。岩瀬さんは観念したように後を続けた。
「ある日、耐えられなくなった私は彼女を呼びつけて本当のことを言いました。お前はうちの子なんかじゃない。拾われてきた子供なんだと。彼女が姿を消したのは、そのすぐ後です」
岩瀬さんの告白は次第に悲しい響きを帯びていった。彼の眼窩から滂沱の涙がこぼれるのを、わたしは、雲間からこぼれる雨を見るように、呆然と眺めていた。
「今でも時々思うことがあります。私があの時、あんなことさえ言わなければ、あの子は、今頃、何も知らずに幸せに生きていたのではないかと。私が、私があの子の人生を狂わせてしまったんです」
そう言ってから、岩瀬さんはテーブルの上に突っ伏して泣き崩れた。慟哭が室内を包み、それを聞いた職員が部屋の中へ駆け込んできた。わたしは驚きのあまりにその場から動くことができなかった。職員が冷たい目でわたしたちを見据えて言った。
「お引き取りを」
紗英が竦みあがっているわたしを立たせようとした。それでも、わたしは腰から上が鉄の塊になってしまったみたいにまったく動けなかった。
職員が岩瀬さんを支えながら部屋の外へ出ていこうとした。その時、岩瀬さんが私の方を見ながら聞いてきた。
「あの子は…あの子は元気にしていますか?」
わたしは何も答えられなかった。本当のことを言ってしまったら、この人は今よりもさらに重い十字架を背負うことになるだろうと思った。けれど、その考えはすぐに頭の中から消えた。わたしに岩瀬さんを責められるはずがないし、そもそも、岩瀬さんに罪があるとは思えなかった。
人は誰かのために狂ったり壊れたりはしない。何か抗いようのないものに背中を押されて生きているだけだ。わたしがそう考えたように、母も同じことを考えたのかもしれなかった。
わたしは岩瀬さんをまっすぐに見た。そうして、ゆっくりと首をふった。岩瀬さんも安堵したように口元を綻ばせた。
岩瀬さんは職員に促されて部屋から出ていった。わたしたちは、彼の姿が完全に見えなくなってしまうまで、涙で濡れた彼の顔を飽かずに眺めていた。
つづく