短編「水曜日の女」
私はあの男から本当の名前で呼ばれたことがない。これから先、名前で呼ばれることがあったとしても、月曜日の女や火曜日の女と間違えられそうな気がする。男にとって私は水曜日の女でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
水曜日になるたびに、男は私の身体を激しく求めた。密会先は熱海の湖畔にある瀟洒なコンドミニアムと決まっていた。日常の憂さを忘れて女の股ぐらに顔を埋めるには東京はあまりにも騒がしいのだ。
永田町では、来春の衆院選をにらんで、ある法案の審議が盛んに行われていた。男は与党の大物議員であり、議論を取りまとめる立場にあった。
男は国会中継で見せる真摯なイメージとは打って変わって、獣のような本性を、私の中へぶち込んできた。私は男に身を任せながら、この男は月曜日の女や火曜日の女とやる時もこんな顔をするのだろうかと思った。それは決して嫉妬なんかじゃなく、純粋な好奇心だった。
男は射精をした後で、いつも寝物語を私に聞かせた。それは、文学の話であったり、政治の話であったり、子供の頃に見た夢の話であったりした。そういう話をしている時、男は子供のように無邪気な顔になった。
私は男が獣になっている時には何も感じないのに、子供のように夢中で話をしている時には不思議と欲情をそそられた。
ある時、男はブラッドベリの小説の話をした。
「人類から読書の機会を奪うということは知性を奪うに等しい。人間は情報に対して受け身になっては駄目で、貪欲に知識を吸収するべきなんだ」
男はそういうことを言って、私の髪を優しく撫でた。
「あなたは違う人にもこんな話をするの?」
「俺と会っているときに違う女の話をしないでくれよ」
「ごめんなさい」
男は国会中継で見せる時の真面目な顔になって電子タバコをくわえた。
「さっきのブラッドベリの話だけど」
「答えられる話にしてくれよ」
「単なる世間話よ」
私は男からタバコを取り上げた。
「やっぱり、国民に賢くなられると、政治家は都合が悪いわけ?」
「それが世間話なのか?」
「都合が悪いのね」
「意地が悪いな、君は」
男は苦笑いをして後を続けた。
「私たちは別に国民に賢くなってほしくないと思っているわけじゃない。むしろ、その逆だよ。正しい情報とそうでない情報を見分ける賢さを身に着けてほしいと思っている」
「リテラシーのことを言っているのよね。国民がその能力を身に着けたからこそ、あなたたち権力の番人は焦っているんじゃないの?」
「権力の番人だなんて言い方はやめてほしいもんだな」
私が次に何か言おうとしたのを、男が唇でふさいだ。男は私の上に覆いかぶさって獣のように猛り狂った。私は男の背中に爪を立てながら、今後のことを考えた。
このまま水曜日の女であり続けるべきなのか、それとも、この男を断罪するべきなのか、男が2回目の射精を終えるまで答えは出なかった。
その翌日、私は、男との会話を録音したボイスレコーダーを、週刊誌に売り込んだ。私たちの会話はソーシャルメディアを通じて、瞬く間に世間に拡がっていった。国会で審議中だった法案は、私のしでかした気まぐれのために廃案となった。
私は自分が歴史を変えただなんて思っていない。そんなだいそれたことを考えるほど、私は賢くもなければ勇敢でもない。ただ、私は水曜日の女で居続けたくないと思っただけだった。