「五分で読み解く文学の世界 第ニ回 梶井基次郎著・檸檬」
以前、或る漫画作品で、「檸檬爆弾」と書いて「レモネード」と読んでいたのを、非常に巧いと感心したことがあります。
元ネタは、言わずもがな、梶井基次郎の短編小説「檸檬」です。
皆さんは、「檸檬」と聞いて、何をイメージされるでしょうか?
鮮やかなイメージ、活発なイメージなど、様々な答えが飛び交うことは想像に難くないですが、いずれにせよ、檸檬という概念が何らかのポジティブなイメージと結びついていることは間違いのないところでしょう。
そのイメージを定着させたのは、言うまでもなく、この作品です。
実際、檸檬という果物は、梶井基次郎の鋭敏な感性によって、鬱屈した魂を外界へと解き放つような、鮮烈なイメージをまとうことになったのです。
あらすじを簡単に述べましょう。
主人公は京都に下宿している肺病病みの青年です。
彼は、「得体の知れない不吉な塊に始終圧えつけ」られており、その塊こそが彼をして街から街へと浮浪せしめます。
ここで言う「不吉な塊」とは、物事が立ち行かないことへの不安、或いは、死が迫りつつあることへの焦燥と捉えることもできますが、青年自身が詩や音楽に対して抱いている負のイメージと捉えてもいいかもしれません。
すなわち、青年は、普段から、詩や音楽など芸術全般に憧れを抱いており、その憧れがそのまま彼を苦しめる呪いとして機能しているのです。
彼は、この不吉な塊に圧えられながら街を彷徨いますが、その道すがらで、一軒の八百屋に立ち寄ります。見すぼらしくないまでも、ただ当たり前の八百屋に過ぎないその店には、それまで見たことのなかった檸檬が並べられていました。
鬱屈した彼の目に、それは一服の清涼剤のように映ったことでしょう。彼はそれを一つだけ買って店を後にしますが、街を徘徊するうちに、檸檬の持つポジティブなイメージが彼の内なる焦燥を鎮め、やがて、幸福をもたらすのです。
それまで彼を圧えつけていた「不吉な塊」と、彼に幸福をもたらした「檸檬」とは、明らかに対になる概念であり、前者が芸術に対する憧れから起こる不安だとすると、後者はそれを和らげる鎮静剤の働きをしたことになります。
しかし、その効果も、所詮、一過性のものにしか過ぎませんでした。
檸檬によって消えたかに見えた不安は、「丸善」に入ったのをしおに、再び、頭をもたげます。心をしめていた幸福な感情は逃げていって、代わりに、憂鬱な気持ちがどんどんと込み上げてくるのでした。
ここで言う「丸善」というのは、京都にある書店で、主人公にとってみれば、憧れに憧れた「芸術の世界」です。
檸檬によって得た束の間の幸福は、その扉を開いた瞬間に、芸術に対する憧れにとって変わり、一気に不安へと落ちていったのでした。
この不安を払拭するために、青年が試みた方法というのが、冒頭でも触れた「檸檬爆弾」です。すなわち、うず高く積まれた画集の上に爆弾に見立てた檸檬を置き、それが何もかもを吹き飛ばすところを想像することでした。
果たして、この企みは見事に成功しました。
青年は、檸檬爆弾によって不吉な塊から解放され、想像の赴くままに京都の街を下っていくのです。
この爽快なラストは、鮮やかな読後感を与えるとともに、清冽な感動さえもたらします。
何故なら、そこには、「自意識」の残骸が一つも残ってはいないからです。
作者は、この作品を描くことで、既成の芸術ばかりでなく、青年期特有の自意識の揺れまでも、見事に破壊しました。
この潔さ、清潔さこそが、この作品の醍醐味であり、文学史に燦然と煌めき続ける理由なのです。