こぼれ落ちるものとすくい上げたい自分と。
去年の年明け、「月一できれいなものを見る」という目標を自分で決めた。ワタシ的きれいなものとは、アートとか、映画とか、ライブとか、舞台とか、とにかくすっぴんと瓶底めがねとよれよれの部屋着で家に籠もって仕事とゲームと家のことに明け暮れる日常とはかけ離れた、きれいなもののこと。クリエーターに憧れがあるわりにはクリエイティビティがほぼない超左脳派の上に引き出しが小さくて少ないので、ちょいちょい吸収しないとイマジネーションがすぐに枯渇するのだ。
諸々の都合で週一とはいかないがせめて月一くらいはきれいなものを見たいと思っていたところへ、このコロナ禍である。美術館やギャラリーや映画館はどこも休館、ライブはことごとく中止で、すっかり予定が狂ってしまった。いくつか配信で舞台を観たりはしたけど、やはり気分はだいぶ違って、レビューを書く気にもあまりなれなかった。
ただ、普段はちょっと行きにくい2.5次元の舞台を配信で観られたのは良かった。劇場で、推しキャラに合わせた出で立ちでペンラやらうちわやらを持った人たちに混じって観るのは、年齢的・性格的に少々厳しい。いやまあ、普通に座って普通に観ればいいんだろうけど。観たのは刀ステ「改変 いくさ世の徒花の記憶」。我が初期刀どのが格好良かったし、カーテンコールでの涙にこちらもぐっときた。あの状況で座長を務めるプレッシャーは、さぞや大変なものだったろう。
そして、今年に入ってから少しずつ展覧会が再開し始めて、今月は2回出かけることができた。まずは先週末で終わった『トランスレーションズ展』。一応トランスレーターを名乗っている以上これは見に行かざるを得まいと思いつつ、ずるずると先延ばしになって、会期終了3日前になってやっと重い腰を上げた。
最初の「Found in Translation」は、申し訳ないがちらりとしか見なかった。Google翻訳を活用した、「機械翻訳で多言語間コミュニケーションはもっと簡単に気軽になる」という趣旨の展示で、人間翻訳を生業とする身としては、便利になっていくだろうという理解はできるけど、やはり完全には同意しかねる。
そこを抜けると、著名な翻訳家・作家諸氏や展覧会関係者による「翻訳の定義」が掲示されていた。その一部が表題に挙げた写真。そうそう、そうなのよ。翻訳者としてはやはりこちらの方がしっくりくる。
そういえば昔、「翻訳者はイタコである」と言った同業仲間がいた。呼び出した霊(≒原著者)の言いたいことを、自分の言葉に置き換えて現世(≒世の中)に伝える役割ということだったと記憶している。実はその翻訳者=イタコ論を唱えた人はすでにこの業界を離れて似顔絵師に転身している。ただ、それもいわばリアルなもの(人の顔)を、写真ではなく自らの技法で紙に写し取るわけで、まったく同じではないにせよベクトルはそう違わないかもしれないと思うのだがどうだろう。
この展覧会は、「文字としての翻訳」だけでなく、世の中のいろいろな「わかりあえないもの」どうし、つまり異なる言葉を話す人間のみならず伝達方法が異なるものどうしの意思をつなぐ手法をすべて「トランスレーション」と呼び、それを紹介するイベントだった。たとえば身体に障がいのある人とない人。縄文時代のものと現代のもの。人間とサメ。人間と植物。人間とぬか床(!)。
ただ言葉を扱う者としてはやはり、言葉をテーマにした展示に興味を惹かれる。感情にまつわる「翻訳不可能な言葉」を収集するティム・ローマス博士のThe Positive Lexicography Project(ポジティブ辞書編集)は、サイトからリストをダウンロードできる。エラ・フランシス・サンダースの絵本『翻訳できない世界のことば』はベストセラーなので知っている人も多いかもしれない(面白いよね)。
視覚障害者と一緒にスポーツを観戦する方法を探る研究から始まり、さらにはアスリートの実際の感覚を「翻訳」する手法としての「かんせん(感戦・汗戦)」をまとめた『見えないスポーツ図鑑』は、スポーツ観戦好きとして楽しかった。フェンシングのつばぜり合いを木製のアルファベットで再現するアイデアについては、翌週行ったライゾマティクス展でフェンシングの表現を見たので、それと合わせて書いてみようと思う。そういえば、日本人なのでつい「つばぜり合い」と書いたけど、選手たちはあの動きをなんと呼んでいるんだろう。教えてフェンシングの偉い人。
ここでは永田康祐の映像作品「Translation Zone」(現在非公開)にいちばん考えることが多かったので、その話を。
映像の中では、黙々と作られていく料理をバックに、淡々とした語りが続く。ただ、ローストビーフをスライスするたびに滑るまな板(せめて濡れ布巾敷いて!)とか、セロリチャーハンを作るときの卵の使い方(へえ、白身だけ先に炒めちゃうのか)とか、そんなことに気を取られて語りが入ってこず、ときどき一時停止して後戻りしたりして、めちゃくちゃ時間がかかるのがちょっと困る(笑)
人は、日々の生活の中で出会う言葉と用例からその言葉の意味を知り、理解する。そしてそこには辞書どおりの意味と、日々変化する用例や意味合いとがあって、ときに違和感や反感を抱いたりしながら、少しずつ受け入れていく。
最近で顕著な例に「やばい」がある。辞書を引いて出てくるのは「危険」「不都合」というネガティブな意味。ところが何年か前から「めっちゃ美味しい」「めっちゃ格好いい・素敵」というポジティブな意味合いのスラングとして使われることが増えてきて、初めのうちは変なのと思ったがいつの間にか平気になりつつある。
Google翻訳で「やばい」を見てみるとまだ一応「dangerous」と出てくるが、今後ユーザーの修正案が増えていくと、そのうちここに「very tasty」とか「marvelous」なんていうのが加わるかもしれない。そうなると、たとえば悪事がバレかけた輩が口にする「やばい」を、「It's very tasty」とか訳したりすることもありえる。(そういえば以前、「とろ~りチーズのフライドポテト」などと訳すべきところを機械翻訳で安くあげようとした結果「安っぽいポテト」というメニューを作ってしまった、我々の業界では有名な笑い話、もとい大惨事もあったっけ)
試しに「cool」で実験。Google翻訳で「This water is cool」を日本語にしたら「この水はかっこいい」と出た。何がかっこいいんだという感じだが、まあこれも、本来の「涼しい」「冷たい」に加えて、すでに一般化している「格好いい」「いかす」というスラング的定義がユーザーか何かによって登録されたことが原因だと思う。その行為が暴走したのが、作品中で語られる、一部の層が「sad」を「高兴」と恣意的に登録したために起きた事案なのだろう(詳しくは映像の6分54秒からを見ていただきたい)。
ちなみに"This water is cool."とピリオドを付けると「この水は涼しいです。」というまあまあな訳文にはなるのだが、ピリオドの有無程度で訳語が揺れるようでは困る。
つい生身の翻訳者として熱くなってしまったが、これは別にGoogle翻訳を貶すための作品ではなく、料理を通じて、翻訳を通じた情報の伝達によって元の言葉に含まれる”あいまいな意味や感情がこぼれ落ちていく”ことに焦点を当てたものだ。
おでんとポトフは、調理法はほぼ同じだけど同じ料理ではない。どちらも具材をスープでことこと煮た料理だからといって「おでん」を「Pot-au-feu」と訳してしまったら、赤ちょうちんの灯りが醸し出す雰囲気や店内に満ちる出汁の香りを感じさせることはできない(その逆もまた然り)。そして炒饭とNasi Gorengとข้าวผัด(カオパット)も、調理法は同じいわゆる「焼き飯」だけど、そこにまつわる空気感や感情はそれぞれ違うはずで、だから独立直後のシンガポールでそれを逆手に取った流行歌が生まれたりしたのだろう。
低温調理+バーナーで作るローストビーフ、シーズニングと粉をまぶして焼く/レンチンする唐揚げ、さらには米麺のセンレックを小麦麺のうどんで代用したパッタイ。もはやその名が意味するものとは違う料理だけど、この”感覚できる結果のために、その物質的なプロセスが改変されていく”過程も「トランスレーション」であり、その中でこぼれ落ちていくあいまいな意味合いや感情に思いを馳せてみようというのが、この作品の主旨のようだ。それをすくい上げるべく日々知恵を絞っている立場としては若干釈然としないが、そのこぼれたものに思いを馳せることで、改めて浮かび上がるものがあるということなのかもしれない。
ところで、このうどんパッタイのような料理は作品中で「bootleg recipe」と呼ばれているのだが、これに相当する訳語ってあるかなと考えて思い出したのが「魔改造料理」だった(笑)この造語センス、自分にも欲しい。