個性をなくす家族の幸せ、よい街。 結論にはそれまでのまとめを書くべし
ベネッセコーポレーションが提供している通信教育「進研ゼミ・小学講座」、別名「チャレンジ」。これの夏休み企画「第20回 夏のチャレンジ 全国小学生『未来』をつくるコンクール」にケチをつける内容です。
夏休み期間中、暇を持て余している小学生に何かしらやる気を起こさせようという意図の企画なのでしょう。商品が目を引きます。
「任天堂スイッチ」
我が家の子どもも目の色を変えて「何すればスイッチもらえるの?」と叫んでいました。企画者の意図は、見事子どもの心を射たと言えます。
1 まさかの大どんでん返し。結論が支離滅裂する大賞作品
私がケチを付けるのは応募用紙に模範作品として載っている「作文ぶもん さく年の 大しょうさくひん」に対してです。まずはその作品を引用しましょう。
同じページの下部には、作文部門の審査基準が記載されています。
「ちいさなそうさくたい」は昨年、審査をパスした作品です。審査をパスしなければ大賞は取れないので。しかし、とてもこの作品が審査をパスしたとは思えません。というのも、審査基準とこの作品には隔たりがあるからです。私が気になったのは、結論「かぞくみんなニコニコしあわせきぶんになります。ぼくはそれがいちばんうれしいです。」の部分。この結論が、審査基準①の「首尾一貫している」に反しているのです。
「論理的な作文の書き方」や「論理」についての著書を多く出している小野田博一氏は、『論理的な小論文を書く方法』の中で、次のように述べています。
小野田氏の引用の中にある「ボディー」とは、小学生の作文で言われているところの「なか」に当たります。意見を、具体例でもって支える部分が「ボディー」であって「なか」です。
結論では、それまで述べたことから論理的に導けることを書かなければならないのであって、それまで述べられていないことを結論で述べてはいけません。結論とは、それまでのまとめです。作中でそれまで述べてきたことを、わかりやすく一言で述べるとどうなるか。それが結論です。それまで述べられていないことが最後の結論で述べられれば、読み手は唐突感を感じざるを得ません。
「ちいさなそうさくたい」を見てみましょう。この作品では、中盤まで一貫して「捜索」に関する内容です。魔法が使えたら親指ぐらいの大きさになりたい。なぜなら、なくした物を探せるから。母親がなくしたイヤリング、父親が落とした靴下、妹が投げたスーパーボール。これらを探すために、「僕」は魔法で親指ぐらいの大きさになりたかったはず。
けれど最後の最後で、結論を「家族皆んなニコニコ気分になる。僕はそれが一番うれしい」としてしまいました。まさかの「家族の幸せ」です。
この作文は「魔法で親指ぐらいの大きさになること」が主張だったはず。そしてその理由は「無くした物を捜索できるから」だったはず。それまでの本文中のどこにも「家族の幸せ」なんて書かれていません。急に「家族の幸せ」が出てきました。これでは首尾一貫どころか支離滅裂です。「捜索」が、いつの間にか「家族の幸せ」に変わってしまったのですから。小野田氏の言うように、「ちいさなそうさくたい」の結論部を隠して結論を当てようとしたら、答えは「僕は家族の無くしものを探すため、親指ぐらいの大きさになりたい。」となるでしょう。それまで一貫してこのことを書いているので。この結論であれば、それまで述べていないことを唐突に述べるようなことをせず、それまでの内容をしっかりと要約できている。「ちいさなそうさくたい」の結論で「家族の幸せ」は、論理的にあり得ないのです。
このように、「ちいさなそうさくたい」は前回大賞を取っており、審査をパスしている。にも関わらずこの作品は、審査基準の一つである「首尾一貫している」に反している。結論が唐突で首尾一貫していないから。だから私は、この「ちいさなそうさくたい」にケチをつけたいのです。「この作品は審査基準をパスしていないぞ」と。
2 幼虫にも性格がある、からの、よい街をつくりたい。道徳性・倫理性を求める圧力
「ちいさなそうさくたい」の結論が支離滅裂になったのは、「作文の最後には道徳的なことを書かなくてはならない」という謎の圧力が原因だと思われます。記憶を遡れば私たちにも、子どもの頃に書いた作文の最後を「楽しかったです」や「ありがとう」と書いて締めた記憶があるのではないでしょうか。あるいは、守れもしない目標を書いて「これからは〇〇するようにしたいと思います」や「これからは▲▲しないように気をつけます」などと書いた記憶。子どもたちは作文を書く際、道徳的・倫理的な結論を書くように強制されているのです。
ネットで作文作品を検索みると、道徳性・倫理性を強制されていることの深刻さがわかります。検索窓をたたいてみると「全国小・中学校作文コンクール」なるサイトを見つけたので、そこに記載されている受賞作品を紹介します。この作品は「第72回文部科学大臣賞作品」だそうです。ちなみにサイト内には、「自由な発想で書いてみよう」という文言が書かれており、「自由な発想」で作文を書くことが推奨されているようです。
いかがでしょう。結論は取ってつけたように「よい街と環境を作っていたい」となっており、道徳性・倫理性の高さがうかがえます。
この作文には全体をとおして、森谷くん(作者)視点による細かい虫の描写が書かれています。「ヒメジャノメ」のような馴染みのない虫の名前だったり、「虫にも性格がある」という擬人化だったり、「まるでよう虫界のトナカイ」という比喩だったり。メインの部分は虫への熱い視線であって、それが、森谷くんが書きたいことだったはず。けれど、周りの大人の指導が入ったのでしょう。結論は「よい街と環境」となっています。結論への軟着陸を試みたのか、最終段落のみでなく、その1つ前の段落から「理想の街」が書かれ始めました。これでも結論の唐突さは否めません。
無理に結論を道徳的・倫理的なものにすることはありません。でないと作文に一貫生がなくなるので。虫が好きなのであれば、「虫が好き」を結論にすべきです。「虫が好き」という主張の後に、虫が好きな理由を書く。おそらく森谷くんであれば「虫は見た目が綺麗だから好き」と書くであろうから、その後に虫がいかに綺麗か、その描写を細かく書く。そうすれば、この森谷くんの個性である虫に対する細かい描写が、論理の流れに乗るのです。結論も、「虫は綺麗だから好きだ」とでもすればよかった。一般的に虫は嫌われているので、他人との違いも出しやすく、個性的な作品になったことでしょう。初めから最後まで「虫が好き」について書けば、主張に一貫性があり、個性と論理性が同居するいい作文になったはずです。
けれどこの作文では、結論にそれまでとは関係のない、道徳的・倫理的な視点が持ち込まれてしまった。指導者は「ただ『虫が好き』では独善的だから、虫を『環境』に繋げよう」と考えたのでしょう。そうすれば道徳的・倫理的な結論を得られる、と。だからこの唐突感のある結論なのです。無理に道徳性・倫理性を出そうとしたので、論理性を無視してしまった。ただ「虫が好き」で通せばよかったものを、「環境」という不純物が混ざった。純粋で自由な発想の子どもの視点に、大人の歪曲した視点が入り込んだのです。いったい、道徳的・倫理的な結論はなんなのでしょう。
レトリック学者の香西秀信氏は著書「反論の技術ーその意義と訓練法」の中で、そんな道徳的・倫理的な結論を書かせる圧力を憂えて次のように述べています。
このように、「ちいさなそうさくたい」も「ぼくたち子どもが大人になった時」も、結論を無理に道徳的・倫理的なものにしています。その結果、論理性が失われ、しかも大人の指導の匂いがする作品になった。子どもらしさがなくなったのです。作文で、無理に道徳的・倫理的な結論を書く必要はありません。結論に書くべきは、それまでのまとめです。それまで詳細に書いてきたことを要約して述べる。それが結論です。結論が道徳的・倫理的であるのは、それまで書かれた内容が道徳的・倫理的な場合のみ。道徳や倫理とは関係のないことが書かれてあるのに、まとめてで道徳や倫理を無理に持ち出してはいけません。
3 というわけで
というわけで、ベネッセコーポレーションの夏休み企画「第20回 夏のチャレンジ 全国小学生『未来』をつくるコンクール」に対するケチでした。「全国小・中学校作文コンクール」にも飛び火したのは、「例証として都合のいい引用はないか」と検索窓をたたいたら思ったより都合のいい作品にぶつかり、筆がノッたからです。
・首尾一貫した内容にするため、結論はそれまでのまとめを書くべし。それまで述べられていないことを結論に急に入れたりしない。
・結論に道徳性・倫理性を出そうとしない。無理に道徳性・倫理性を出そうとすると、個性や論理が失われる。やはり結論は、それまでのまとめを書くべし。
でした。
参考
小野田氏の主張は、論理の正統的な主張。正確に伝える。厳密に伝える。容易に理解できるように書く。大げさな表現を使わずクールに述べる。論理の王道ど真ん中であって、そこに感情は入ってこない。
それに対して香西氏の主張は論理の邪道。論理は的思考は対等な人間関係を前提に成立している。が、われわれは大抵、隔たった力関係の中で議論する。対等の人間関係が存在しない以上、真空状態で純粋培養された論理的思考は十分に機能しない。
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