本部に守護られた刃牙。 神の存在証明に「説得さ(とか)れちまった」
「守護る」というセリフがあります。これで「まもる」と読む。「刃牙道」において、本部以蔵が好んで使ったセリフ。現代に復活した剣豪・宮本武蔵と闘う理由を、本部は「仲間を守護ること」と考えたのです。
元々、本部はバキのキャラの中では「弱い」部類でした。古参のキャラとはいえ、大した活躍の場を与えられずに生き残っているキャラ、それが本部以蔵。
けれど、「刃牙道」において作者・板垣先生の目(気まぐれ)に止まったのでしょう。宮本武蔵を打つ者として、他のキャラを倒しまくりました。ジャックハンマーを破り、勇次郎の前に立ちはだかり、スポットを当てられる度に「お前は俺が守護る」と言い続ける。初めは誰もが「は? あの弱い本部が?」と本気にしませんでした。が、実際に宮本武蔵をも倒し、主人公・範馬刃牙に「どうする……? 守護られちまったわ……」と言わしめたのです。刃牙もまさか、本部が宮本武蔵を倒すとは思っていなかった。
この「刃牙」の件(くだり)を掘り進めてもいいのですが、そうすると話が違ってくるので今回は止めにしましょう。あくまでもこの件は話の枕です。
刃牙のように「守護られちまった」わけではありませんが、私の場合は「説得さ(とか)れちまったわ……」と言えます。説得されてしまいました。『「神」という謎』に、です。
本書の第7章。書いてあるのは神の存在論証のうち、宇宙論的論証と言われるもの。この章を読んで、「なるほど、確かに神はいるわ……」と恐れ入ったのです。宇宙の起源に対する興味から神の存在を論証する。その論証は、以下のようになります。
私はこの章を読む前、ハッキリ言って侮っていました。「神の存在論証」なんて大層な名前をつけてはいますが、どうせ説得されはしないだろうと。あの弱い、あの冴えない、あの年老いた、あのよくワカらない、神の存在論証。というのも、今までこのような宗教的な主張を読んだり聞いたりして、説得されたことなどありませんでしたから。
「天国があるから……」「死んだ後には魂になって……」「最後の審判では……」。この手の宗教的な主張は、どれも「あ、そう」という程度であって、説得にはほど遠いもの。「科学が広がる前の時代だったら信じたかもしれないけれど、今はね……」。
説得力のない神の存在論証の例として、以前、ある本にこんな感じの論証が載っていました。
1 私は神の存在を知っている
2 神は「完全である無限の存在」であるわけだが、私は「不完全で有限の存在」である。ならば、その私が「神」を知っているのは明らかにおかしい。
3 したがって、「神」という概念は、私が考えたものではなく、「私の外部」から与えられたものである。
4 ゆえに、神は存在する。
これではなんの説得力もありません。2も3も4も、スッと納得できるものではない。疑問が残るだけです。「どうして不完全な者は完全なものを知ることができないのだろう」「どうして神が外部から与えられた概念だと、神は存在するということになるのだろう」と。
だから『「神」という謎』の、神の存在論証を読む際も、「どうせ今回も納得はできないだろう」と侮っていたのです。「そういう考えもあるのね」で終わるかな、と上から見ていた。丁度、刃牙も、ジャックも、独歩も、渋川先生まで、皆んなが本部を軽視するように。
が、予想外にも説得されちまったわけです。
私が特が感銘を受けたのは、宇宙論的論証のステップ4「原因の系列を無限にさかのぼることはできない。」の部分。ここにスポットを当てて紹介します。本当は論証全体を紹介した方がいいのでしょうけれど、それでは章をまるごと写すことになり、盗作になりかねないので。
これは何のことを言っているのか。例えば、この世界がビッグ・バンから生まれたというのは多くの人が知っていると思います。正確にいうなら「ビッグ・バン説は多くの人が知っているだろう」ということ。この説も数ある説の1つに過ぎないのですから。
このビッグ・バン説を聞いて多くの人が想像するのは、原因の系列が無限にさかのぼる宇宙だと思います。ビッグ・バンでこの世界が始まったとしても、ビッグ・バン以前にも何かがあった。でもってその「何か」の前にも、その「何か」を生み出す別の何かがあった。この因果関係は永遠に連なっているのだろう、と。この世界の始まりに原因Aがあって、原因Aの始まりに原因Bがあって、原因Bの始まりに原因Cがあって……。この連鎖が無限に繰り返される。そんな、原因の系列が無限にさかのぼる宇宙を、多くの人が想像していたことでしょう。けれどこの連なりは、実はどこかで必ず終わるものなのです。
この連鎖の原因を無限にさかのぼることはできません。なぜなら、実際にこの世界が存在しているからです。それを本書では、譬えによる議論を用いて説明しています。
譬えによる議論は予備知識なくとも理解できるのがいい。予備知識不要でダイレクトに、説得という効果に働きかけます。
例えば以前、ウチの子どもがテニスラケットを友人から借りたことがありました。「明日は試合だ」という前日になって、ラケットのガットが切れたのです。子どもは予備のラケットを持っている部活仲間を探すことになりました。友だちのA君に「テニスラケットを借りたい」と申し向けたところ、A君は「自分では持っていないが、B君に頼んで借りてあげよう」と言う。しかしB君も予備のラケットを持っておらず「C君に頼んで借りてあげよう」と言う。で、仮にこの連鎖がどこまでも続いていくものとしましょう。
この場合、あることが言えます。それは、もしもこの連鎖が無限に続くならば、ウチの子どもはいつまでたっても決してラケットを借りることができなかった、ということです。実際、ウチの子どもはテニスの試合に出ることができました。ラケットを借りることができたのです、それは、この連鎖が無限に連ならず、どこかで止まったことを意味します。つまり、他人からラケットを借りず、予備ラケットを自分で持っていた友人が存在したのです。
いかがでしょう。この譬えによる議論、美しいですよね。というのも、卑近な事例を使って知的な命題を説得力をもって論じていますから。
本書に載っていた事例は、テニスラケットではなく、友人から教科書を借りる、という設定の譬えでした。友人から教科書を借りようとして、「自分は持っていないけど〇〇君に借りてあげよう」の連鎖が始まります。永遠にこの連鎖が続くのであれば、教科書は借りられない。実際に教科書を借りられたのなら、それは誰か自分で教科書を持っていた者が存在したということ。
数学的な証明を使うわけでもなく、難解な論理記号を使うわけでもなく、日常起こりうる事例を使って一見、直感に反するような命題を論ずる。この一気に飛ぶ辺りが、美しさの秘訣だと思います。何気ない床屋談義が、実は高尚な説法を支えているかのように。身近な実例の理解が、直接に崇高な主張の納得を引き出します。片手間の世間話が、知的で気高い理論へとダイレクトに飛ぶのです。
この、原因の無限遡行を止めた究極の原因、一番最初の原因を、「第一原因」と呼びます。考えてみてください。これって恐ろしくないでしょうか。第一原因が起こる原因は「無い」のです。第一原因は、理由なく存在している。一見、私たちは、何事にも原因があると考えます。どんな物事も、理由があって存在していると思う。大方の場合、その考えは正しいと言えるでしょう。というのも、第一原因以外には原因があるのですから。私たちが生きている間に出会う出来事には例外無くすべて原因がある。原因が無いのは、この世界の原因である第一原因のみ。時間に限りがある人間は、どこまでも遡行を繰り返すことができません。人間が持っている有限の時間内で、有限の知能で考える限り、どんな物事も理由があって存在するように見えるだけ。
もしも第一原因がなかったら、この世界は存在しない。原因の原因の原因の……という風に遡行はどこまでも終わり無く続いていきます。けれど、実際にこの世界は存在する。宇宙があって、地球があって、私たちが暮らす日本という社会が実際にある。ということは、無限にさかのぼることなく、何かに突き当たるはずなのです。それ以上の原因なく、それ以上の理由なく存在している何かに。そんな「神の」と呼べるような存在が実際にあることを、この論証は論理的に説明しているのです。
まさか説得されるとは思っておらず、冷めた目でこの本を読み始めました。「どうせ説得されっこないだろう」「どうせ理解できなくなるか、あるいは現代人には納得できないような内容に突入するだろう」と思っていた。が、見事に説得されました。
説得さ(とか)れた今、私の内にあるのも解放・安堵・感謝の甘み、焦燥・後悔・嫉妬の苦味です。守護られた刃牙のように。
参考
本書によると、宇宙論的論証のメリットは、この世界の外に、根底に、原理的に科学では解明できないものが確かに存在することを示すこと。デメリットは、「神」の存在論証としては弱く、不十分だということ。この世界の外に、根底に何かが存在するとしても、それが西洋有神論的な神だという保証はありません。もしかしたら、意思を持たない無機物のような物かもしれない。あるいは、かつて第一原因だった「それ」はもう存在しないのかもしれない。
私は、ジャック・ハンマーvs本部以蔵が好きでした。フィジカルモンスター・ジャックの踵落としの描写が格好良くて。しかも、その踵落としが「決まった」と思ったら、本部は刃物で防いでいた。でもって決着の場面でのセリフ「生殺与奪の権を先に手にした者」、からの「俺が守護(まも)る」。映画のシーンのようで格好良かったです。