論破のやさしい方法。警察官だって悪いことしてるじゃないか
石丸元市長やひろゆき氏の論破がニュースになっています。本記事は論破のやさしい方法について。論争相手を論破するには、誤謬を身につけるのがお勧めです。
1.論破したと勘違いしてはいけない
「論破の方法」などと書いておきながら、論破に対する否定的な意見から述べます。勘違いしてほしくないのですが、この社会に完全な論破はあり得ません。なぜなら、論破は対等な力関係を前提とするものであって、我々の社会に対等な力関係など存在しないからです。
論破の前提には、対等な力関係があります。論とは言葉であり、議論(言い合い)は言葉がもつ意味だけで戦わなくてはならない。議論において言葉がもつ意味以外は、考慮の埒外に置くべきなのです。言葉がもつ意味以外とは、例えば力関係。上司と部下の関係だったり、親子関係だったり、教師と学生の関係だったり。これらの関係を抜きにして対等な力関係を前提とし、発せられる言葉の意味だけで優劣を決める。それが議論です。
そして、対等な力関係の中で議論することが我々の社会ではできないのです。どんな議論においても、そこには必ず力関係が存在します。職場で議論する場合、部下は上司に雇用上の権限を握られているため機嫌を取らねばならない。家庭での議論でも、親は子を養育しているため主導権は親にある。学校でも、教師は生徒を指導・教育するのであり、生徒は教師に頭が上がらない。対等な力関係など存在しません。しかも、この力関係は固定されているわけでもない。部下の声を真摯に受け止めようとする上司は、その圧力に屈して部下に低姿勢な態度をとるでしょう。親は自暴自棄になった子に手をつけられません。SNSによって教育委員会や世間の目が身近にある中、学生は教師より優位に振る舞えるとも言えます。力関係はどこにでも存在し、対等な力関係をつくるのは不可能なのです。
このように、対等な力関係が社会には存在しないから、それを前提とする完全な論破などあり得ないのです。
Yahoo!ニュースに先日、元乃木坂の山崎氏が石丸元市長に論破された旨の記事が載っていました。この論破も、厳密な意味での論破ではなく、論以外の力関係で勝敗がついた可能性が高いのです。
2.論破とは反論の結果である
本題に入り、まずは論破の概要から。論破とは効果的な反論の結果です。
(1)沈黙は論破の明確な指標
どんな状態が「論破した」と言えるのかというと、沈黙です。沈黙は論破の明確な指標と言えるでしょう。議論の中でお互いが反論の応酬をしているのであれば、優劣はあるにせよ、まだ完全に決着はついていません。どちらかが言葉を返せなくなった時、いくら論者自身が悔しがろうが、第三者的には決着がついたと見なされます。目指すは、自身の反論に対して、有無を言わさぬかたちで相手を黙らせることなのです。
(2)反論の二つの型
レトリック学者の香西秀信氏によると反論には二種類に分けられ、それらは「主張型反論」「論証型反論」と呼ばれます。このうち相手の沈黙を誘うのは、論証型反論です。
主張型反論とは、相手の意見とは別の意見を述べること。例えば、相手の意見「昼はマックがいいね。安いし」に対して「いいや、近いからラーメン屋の方がいいよ」と言ったり。相手の意見「期末試験で点数が取れたのは実力だね。勉強してたもんね」に対して「いや、先生のおかげだね。しっかり教えてくれたから」と返したり。相手の意見とは関係なく、自分の意見を言うことが主張型反論です。
主張型反論は実質的に、単に意見を言うのと変わりありません。たまたま自分の意見が相手とは違う意見なわけですから。一方的に意見を言って、結果的に内容が相手と違っているのが主張型反論です。
それに対して、相手の意見が正しくないことを直接に批判するのが論証型反論です。例えば、相手の意見「昼はマックがいいね。安いし。」に対して「いいや、安くないよ。お腹いっぱい食べようと思ったら千円超えるし」と言ったり。相手の意見「期末試験で点数が取れたのは実力だね。勉強してたもんね」に対して「そうじゃないよ。勉強したからと言って点数が取れる試験じゃなかった」と返したり。相手の主張を支える根拠を検証し、「その根拠では、その主張は成り立たない」ことを論証するのが論証型反論です。
論証型反論は、相手の意見の批判的点検を前提とします。「その根拠では、その主張は成り立たない」ことを述べるには、相手の意見の論理構造を見極め、どれが主張でどれが根拠かを明確に意識する。その上で「その意見は妥当か」「根拠に誤りはないか」を点検するのです。
(3)相手を論破するには論証型反論
相手を論破できるのは論証型反論です。主張型反論はお互いにいくらでも反論が言えるのに対して、論証型反論は「いくらでも言える」わけではありませんから。
例えば上記主張型反論のマックの会話。これは、昼食の候補がある限り永久に反論が続きます。この後も「いいや、駅前の蕎麦屋にしよう。あそこは美味いよ」「やっぱり、吉野家かな。今、キャンペー中だし」「でもフードコートで食べるのも捨てがたい。好きなもんが食べられる。」…と続けられる。お互いが相手の意見を聞かず、自分の意見が思いつくだけ好きなだけ言えます。争いがなく、平和と言えば平和なのですが、お互いが主張型反論を繰り返す限り、論争に決着はつきません。
論証型反論は、決着に向けて進みます。
この議論は「マックは安いかどうか」が論点になっており、論点の正否に向けて議論が進んでいきます。もちろん、厳密に論証しようとすれば、たとえこの程度の会話であれいくらでも穴を見つけられます。「『安い』って、何をもって『安い』って言うの?」「『お腹いっぱい』ってどのくらい食べることを『お腹いっぱい』って言うの?」などを突き詰めると終わりは見えません。が、現実の範囲で考える限り、「マックは安いかどうか」は決着がつくでしょう。
この程度の和やかな会話であれば、どちらかが「そうだね」と言って会話は終結します。これも論破です。反論に対して反論できず、相手の意見を認めてしまったのですから。プライドが邪魔して相手の意見を認められず、不和の中で会話が終結するのが一般的にいう論破です。
論破とは、論証型反論に対して相手が反論できない状態なのです。
3.誤謬は反論を容易にする
論破するのに、つまり、相手が黙りこくるような効果的な反論をするには、誤謬を身につけるのが有効です。
(1)誤謬とは
誤謬とは、物事を考える際に陥りがちな非論理的なクセのことです。
例えば、私たちは格言をつかって論証されると「なるほど」と思います。
友人が吹奏楽部に入部しようかどうか迷っていたとしましょう。その友人は、部室のドアの前で、入ろうかどうか悩んでいる。「吹奏楽部に入って実りある高校生活を送りたい」と思いながら、それでいて不安もあり「厳しい先輩しかいなかったら…」とか「自分だけ下手だったら…」と心配している。この状況に対するアドバイスとして「ドアを開けて中に入んなよ。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』って言うし」が考えられます。格言を使ったアドバイスは知的で高尚な感じがします。けれど、格言を使うことが説得力をもたらすことはありません。というのも大抵、相反する意味の格言が存在しますから。この場合は、同じように格言を使って次のような言い方もできます。「入るのはもう少し考えてからにすれば? 『転ばぬ先の杖』って言うし」と。
格言や決まり文句を使った根拠は知性や品位を感じさせますが、実はどうとでも言え、素直に頷けるものでも無いのです。
格言や決まり文句を使っての論証を「格言の誤謬」と言います。
権威を使ったこんな誤謬もあります。
例えば、車を運転していて、警察官から呼び止められたとしましょう。その警察官は、道路交通法違反だと言ってきます。「交通違反です。横断歩道に歩行者がいたら、歩行者を優先してください。歩行者が横断歩道を渡ろうとしているのに、その前を走ったら危険でしょう。横断歩行者妨害で切符を切るので免許証の提示をお願いします」。こう警察官から言われると反論しづらく、「確かに違反なのかも」とも思います。けれど、警察官であることを根拠に説得力を感じるのは誤謬です。「無関係の権威者に訴える議論」と言います。これはその名の通り、たとえ権威者であっても「分野が違えば説得力ないよね」という意味。その問題に利害が関わっている権威の発言も疑いを持って見るべきです。警察官が「違反だ」と言ったところで、警察官は切符を切りたがっているのですから、利害関係者です。「交通違反だ」という警察官の発言は、無関係の権威者に訴える議論を犯しており、疑うべきなのです。
このように私たちは、格言を根拠に使われたり、たとえ無関係であったり利害関係者であっても権威を根拠に論証されると説得力を感じます。けれどこの説得力は偽の説得力。よくよく考えると論理が妥当でなかったり、説得力が不十分だったりします。誤謬とは、物事を考える際に陥りがちな非論理的なクセなのです。
(2)なぜ誤謬が反論を容易にするのか
誤謬を身につけると、相手を論破するのが手軽にできるようになります。というのも、相手の発言が明白に誤りだとわかりますから。
議論において知識は、あるに越したことはありません。
例えば友人と話をしていて、次のように馬鹿にされたとしましょう。「日本の人口の70パーセントはディズニーランドに行ったことがあるらしいよ。千葉県民を対象にした最近の調査だってニュースで行ってた。行ったことないの?」。もしもディズニーランドの統計に関する知識を持っていれば、相手の発言に反論することもできるでしょう。
例えば友人とドライブに出掛けて、駐車場がないとき、道路で次のように言われたとします。「ここは道路に止めてもいいんだよ。ほら、他にも止めている人がいる」。もしも道路標識についての知識があれば、友人の発言内容の真意を判断できます。
けれど、議論はいつどこで起こるかわかりません。自分の知識を生かせる分野でのみ議論が始まるわけではない。これまで聞いたこともないような話題について、唐突に議論をふっかけられる場合もあります。すべての範囲をカバーできる知識を身につけようとすると、広大な分野の膨大な知識が必要になるのです。本屋の棚すべての本を頭に入れなくてはならなくなる。そんな膨大な量の知識を身につけるのは、神でもない有限の時を生きる我々にとっては無理というもの。
そこで誤謬です。誤謬は知識ではなく論証の型に注目するので、どの分野でも使えます。
たとえ「ディズニーランドに行ったことがあるのは何割か」の知識が無くても、困りません。誤謬に気づけばこんな感じで言い返せます。「君の言っていることは当てにならない。その発言は『代表的でないデータ』の誤謬に陥っている。ディズニーランドは千葉県にあるため、千葉県民が他県の人間よりもディズニーランドに行く割合は大きい。千葉県民を対象にした調査には説得力がない」。
たとえ道路標識の知識が無くても迷うことがなくなります。誤謬を見つければこのように反論できるのですから。「それは信用ならない。今のは『である・べきであるの誤謬』だ。周りで行われている現実があるからと言って、それが正当化されるわけではない」と。
どんなにマイナーな分野でも、知識に頼って検証することなく、「誤謬である」と言うだけで相手に反論できる。
このように誤謬の知識があれば、たとえ自分と関係の薄い分野で議論をふっかけられたとしても、知識に頼らずに反論できます。しかも「誤謬認定されているほどに間違いが明らかである」ことを示しながら。誤謬を身につけると、相手を論破するのが容易になるのです。
(3)誤謬一覧
誤謬を5つ紹介します。いずれも会話の中で頻出する使い勝手のいい、指摘がいのある誤謬です。私も警察官時代に論争(言い合い)の中で散々、指摘して来ました。これらの誤謬を相手の意見内に見つけ、名指しで誤謬である旨を説明できたならば、必ずや相手を論破し論争に勝利することができるでしょう。
ア 後件肯定の誤謬
もしAならばBであるとして、BであるだけでAと考えること。
交通違反の取り締まりをしていたとき、こういう言い訳をする違反者がよくいました。「違反じゃないですよ。私にはお巡りさんがいたの見えてましたから」。けどコレって、交通違反をしていないことの証明にはならないんですよね。一時不停止違反を例にすると、おそらくこういう理屈なのでしょう。
道路脇にいた警察官が見えたからって、だからと言って「違反をしていない」ことにはなりません。これは、後件(道路脇にいた警察官が見えた)の肯定から前件(交通違反者で無い)を肯定しており、誤謬です。
動物の分類で考えるのが頭の整理に効果的です。例えば、犬ならば哺乳類だとして、哺乳類であることから犬だと言うことはできません。下記の推論は誤謬です。
もしAならばBであるとして、BであるだけでAだと考えることは「後件肯定の誤謬」です。
イ 発生論の誤謬
これは「元々は〇〇だったはずだ」という誤謬。物事の、元の状態や以前の状態を評価して、それを現在における結論の根拠にする、というものです。もし仮に「元々は〇〇だったはずだ」というのが正しいとして、だからと言ってそれが何でもかんでも主張の根拠にできるものではありません。「大谷翔平は元々岩手県出身だから、ドジャースは岩手に納金すべきだ」とか。「中居正広(元SMAP)なんて大したことないよ。元々は貧乏だってんだから」とか。
これも警察官時代の体験。よく交通違反者からこんなことを言われていました。
交通違反の取締りをすると、取締りを受ける側は「警察が市民を攻撃している」ように感じるのでしょう。わからなくはありませんが。100歩譲って「元々警察官は市民を守るためにある」のだとしても、だからと言って交通違反を見逃す理由にはなりません。元々と今は違うんです。
ウ 前後即因果の誤謬
これは時間的前後関係を論理的因果関係と取り違える誤り。出来事Aの後に出来事Bが起こったからというだけでBの原因はAだ、という決めつけ。
警察官をしていた時、酔っ払いを保護して警察署に連れて行った事が何度もあります。ある時、課長に呼ばれてこんなことを言われました。
いやあ、たまんないですよね。警察官から保護された後に腕が痛くなった事を根拠に「私が腕を抱きかかえたのが腕を痛めた原因だ」なんて言われたら。他にも、警察でなくとも職場でこんな冗談があるでしょう。
ほとんどの場合、結果を引き起こした原因は他にもあるはずです。いくつかの原因が積み重なって結果が起きる。でも私たちは、直近の出来事や自分が気になる出来事にしか目を向けません。エレベーターが定員過剰で「ビー」と鳴ったのは、直前に乗った者の体重のせいではなく、そのエレベーターに乗った者全員の重さのせいです。直前の者は最後の一押しだったに過ぎない。
エ 対人論証の誤謬
「人に訴える議論」とも言います。人と論を区別できないがゆえの誤り。本来、人と論は別です。その人の発言内容と、その人の人格は別物として考えなければならない。言葉のもつ意味だけを考えるのが論です。ドロボーが「万引きは良くない」と言ったところで、確かに「お前が言うな」とは思いますが、万引きが良くない事に変わりはありません。痴漢ヤローが「痴漢なんかするな。卑怯者」と言ったところで、確かに「お前が言うな」とは思いますが、痴漢が卑怯者である事に変わりはありません。人と論は別なんです。
けれど、私たちはよく人と論を混同しがち。人格を根拠にその人の発言内容を否定しようとします。下記は、かつて交通違反の取締りをしていて頻繁に違反者から言われた例です。
これだけを言うなら警察官に対する悪口ですが、コレらを根拠に「違反ではない」と言うのなら、それは対人論証の誤謬です。人と論を混同している。人格を根拠に相手(警察官)の意見を否定しようとしていますから。上記(ア)は発生論的虚偽、(イ)はお前だって論法、(ウ)は人格攻撃、(エ)は言動の不一致を根拠にした誤謬、(オ)は立場の偏向を根拠にした誤謬、となります。
オ 不十分なサンプル
「請求な一般化」とも言います。たった1つの証拠や個人的逸話から話を一般化して根拠にする誤謬。警察の経験から例を出すとこうなります。
もしもこの「皆んな」が本当に不特定多数であれば誤謬でもないのでしょうが、大抵は個人的見解です。アンケートを取ったり聞いて回って得られた根拠でも無いでしょう。「私はこう思う」を根拠に主張されても個人的意見の域を出ないので、一般化するにはあまりにも不十分です。
ちなみに本記事の「誤謬一覧」では、私の個人的体験から有用だと思われる誤謬をあげています。もしここを読んで「これは誤謬だ。不十分なサンプルの誤謬を犯しているじゃないか」と思われたのなら、それは本記事の効果と言えるでしょう。本記事を読んで誤謬とは何かが頭に入ったからこそ、不十分なサンプルの誤謬を看破できたのですから。
4.まとめ・おわり
以上、「論破の簡単な方法。警察官だって悪いことしてるじゃないか」でした。論破とは、反論に対して相手が反論できない状態。沈黙は論破達成の明確な指標になります。反論には「主張型反論」と「論証型反論」があり、相手の論理を検証する論証型反論が論破に帰着し得ます。誤謬とは我々が犯しがちな思考上の誤り。誤謬に精通すれば、たとえ知識不足でも反論できるので反論が容易になります。主な誤謬には「後件肯定の誤謬」「発生論の誤謬」「前後即因果の誤謬」「対人論証の誤謬」「不十分なサンプル」などがあります。ただし対等な力関係が存在しない故、厳密な論破はあり得ないことは押さえておくべきです。論破とは効果的な反論であり、誤謬への着目が効果的な反論を容易にする。だから議論において論争相手を論破するには、誤謬を身につけるのがお勧めなのです。
参考
こちらの本を参照しました。誤謬を勉強する教科書として、記事を書く際の辞書として非常に使える本です。著者は哲学や論理学の権威なので、「無関係の権威者に訴える誤謬」でもありません。
香西秀信氏の著書。本記事のみならず、私の記事の根底にはこれら本の思想があります。私より若い年齢でこれらの本を執筆したことに感嘆します。