旅のはじめにかかる魔法 シートベルトは外しておいて
その日は16時まで仕事。旅の前にそんな場合ではない、とは思っていたけど。そしてこの直後、旅行でできれば体験したくないBEST3に入るであろう、飛行機間に合うか事件に巻き込まれてしまうのだった。
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当時ホテル勤めだったわたしは、人を見送る立場にいた。空港行きのバス停で待つ人々を横目に、いってらっしゃい、と心の中で毎日声をかけてきた。そして今日は自分の番なのである。
「今日いくんやね〜、なんかドキドキするわ」
隣のデスクの先輩(男)は旅行に行く私よりもなぜかウキウキしていた。なんで?パリじゃない。NYでもない。エジプトだからでしょうか。
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空港行きの車高が高いバスからの眺めは幸せだった。いつもの街を通り過ぎるだけなのに優越感がわく。毎日うんざりするような通勤ロードがアルケミストのサンチャゴも夢見たピラミッドに繋がっている。そう考えたら眠ることができなかった。
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しばらくして、東北道でバスが止まった。10分、15分経過しても1メートルたりとも進む気配はない。恐れていた渋滞にはまってしまった。
時刻は20:30。予定より1時間以上は確実に遅れている。辺りが暗いのでどこまで車が続いているのかよくわからない。さすがに時計を確認する頻度が上がった。
しかし、もっとよくないのはバスの雰囲気だった。後方の乗客たちがイライラし始めた。それがバス全体に蔓延しているのがわかる。最悪だ。
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どちらかというとその狭い空間に漂う淀んだ空気にわたしは耐えられなかった。シートベルトは安全装置ではなく、まるで囚人用の腰紐みたい。
空港に到着している旅仲間たちは迫る搭乗時刻を告げてきた。もう一名は次の便を探し始めてくれているらしい。最悪だ。
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わたしは思い切って席を立ち、運転手に声をかけた。返ってきた言葉は「到着まであと2時間かかるかも」。THE ENDってわけ。
結果を聞くと人は少し冷静になれるらしい。ショックも絶望も感情という感情はなく、私はただただ、いま空港に到着できない、という事実に直面していた。
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その時だった。隣に座っていたちょっと強面のおじさんが私に声をかけてきた。(サンドウィッチマンの伊達みきおに似ている。以下、みきおさん)その声は優しかった。
「参りましたね」
参ったも何もない、と心で思いながらも、「とにかく間に合ってほしいです」と不本意なことを言った。
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「どちらへ行かれるんですか」と、みきおさん。
エジプトです、とだけ言った。
「エジプトか。それは本当に遅れられないね。俺も人生のうちで一度は訪れたいところの一つだよ。」
バスが遅れそうなのに、わたしはいま、他の人から羨ましがられているんだ、と思った。そうだ、エジプトに行くのだ。
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「大丈夫、大丈夫、間に合うから!」
みきおさんが笑って言う。みきおさんはバンコクに行くらしい。しかも私より遅い時間のフライトで。
なんて他人事な、と心で思いながらも、口からは「そうですよね!」と元気に返事をしていた自分に驚いた。
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羽田を利用することが初めてだった私に、みきおさんは呪文のように言った。
「バスがターミナルについたら真っ先に降りる。
シートベルトは外しておいて。
スーツケースを持っていないなら君はラッキーだ。
そのまま猛ダッシュしてまっすぐ目の前のエレベーターに乗る。
3階出発ロビーに着いたら列に並ばず、
目に留まったスタッフにすぐに声をかけて。
1分で出国ゲートを抜けられる。」
彼は笑う人だった。バスを降りたらきっと一生この人に会うことはないのだ、と思った。
感謝と共に、わたしは勢いよくバスを飛び降りた。
ゲートは本当に1分で抜けられた。グループのみんなには心配をかけた。しかしわたしが現れた時、だれも追い立てるような話し方はしなかった。
こんばんは。初めまして。よろしくお願いします。
そんなことから始まり、遅れたことを謝罪するわたしへ、皆は一同に一緒にいけてよかった!と声をかけてくれた。むしろフライトに間に合った英雄、みたいな歓迎ぶりで。
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シートにようやくお尻が落ち着く。今日の目的地の最終地点がここであったことは本当に幸運だ。
ふと、みきおさんは乗れたかな?と思った。バンコク行きのゲートもそろそろ閉まるころだった。でも次の瞬間、余計な心配はやめようと思った。
東京のネオンに見送られて、飛行機は経由地のドーハへ飛び立った。