日記 悦びの騒擾/相乗
気温が上がってきて、暦の上でも夏に入り、野良仕事が本格化してきた。最近は、草刈りや畦塗りや夏野菜の播種に追われている。
作業をしていると、バッタ類の幼虫やカエルたちによく出くわすようになった。ゆくゆく大きくなれば彼らには、わが愛しのニックたち(鶏)の餌になってもらう。つまり、彼らの存在はそのままでも歓ばしいのだが、彼らを食べるニックたちを食べる悦びの予祝としても、わたしには余計に歓ばしいのである。
カラスノエンドウやキンポウゲやハルジオン(ヒメジョオンかもしれない)が花盛りだ。山の端々にはヤマフジも堂々と咲き誇っている。アザミもぽつぽつ咲きだした。きょうもわが里山は賑やかだ。
野辺に佇み、季節ごとの諸存在を確認するだけでこの上なくたのしい。だからわたしは毎日たのしいのだ。
こんなことをおもっていると、素晴らしいツイートが流れてきた――
さらには、彼らを誰かと一緒に感じればなおたのしい。異種たちに囲まれてあることを、わたしは一人でも十分にたのしめるのだが、そこに同種である他の人間とともにいることで、そのたのしさは不思議と増幅する。同種関係もバカにできないな、などと思ったりする。尤も、人間であれば誰でもいいというわけでは勿論ないし、これも異種たちあってのことであるのは言うまでもない。
例えば誰か気の合う人と、アブラムシを食っているテントウムシを眺めたり、枝垂れ桜とおぼしい灌木の葉を揉んで桜餅の匂いを嗅ぎとったり、シシウドとウドの味を生で齧って比べたり、タラノキの繁殖力に驚いたり、ノカンゾウの球根の形をおもしろがったりするだけでいい。いくらいても一銭もかからないし、悦びは相乗する。里山は、同種関係の場としてもすばらしい。
ちなみに、多くの動植物たちが存在することを歓べるだけが里山の本領ではない。すべて生命というのは侵しがたく尊い存在だ。『つち式 二〇一七』でも触れたが、里山では、里山環境に適応した尊い存在たちを育むこと、くわえて、その尊い存在たちを殺して生きること、という二重の悦びがあるのである。
わたしの田んぼからカエルたちの騒がしい声が聞こえる。やがてわたしに鶏の餌にされる者たちよ、精々鳴いておくがいい。
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