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母は逃げて良いと思った。その3

その1
その2

さて今日は再生期の話。

現在次女が生まれて12年、長男が生まれて9年、果たして私の中の障がい受容ができているかと尋ねられるとそこは「イエス」とは言えません。この子たちの母で良かったと思ったとしても、障がいのある子で良かったなんてことは、口が裂けても言えません。それは、私ら親が決める事ではないと思っています。

さて、次女は1歳になる前から保育園に通っていたのですが、慣らし保育の時からスーパーギャングでした。

え?3時間泣きっぱなしでした?え?みたいな。
よく言う「お母さんが行ってしまったら泣き止むから大丈夫!気にしないで!」が一切通用しない赤子それが次女。まさにスーパーギャング。

そんな次女が年少さんに上がった時のことです。それはちょうど、息子が産まれて私も産休を取りつつ、子どもらは小学校と保育園に通わせながらの3人育児にてんやわんやしてた時でした。保育園の主任先生からある日のお迎えの時にお話しがありました。
「次女ちゃん、年少さんから2階に上がったりクラスが違ったりすることで不安になったみたいで、自分のほっぺたを思いっきりつねってしまって、傷になってます、ごめんなさい」
見ると、痛々しい次女の頬の傷。未だに映像を覚えてるけど、無表情な次女が黙々とパズルをしていて、その頬には、傷。
「お母さん、次女ちゃんのことで心配なことがあるので、色々相談に行ったほうが良いと思うんです」
信頼している主任先生からの言葉だったというのもありましたが、何よりも、「私が向き合うのを後回しにしてしまったせいで、次女はこんなにも葛藤して自分を傷付けてしまった」ということに対する罪悪感という感情で、はちゃめちゃぐちゃぐちゃになったことを、すごくハッキリと覚えています。

あと、ちょうど息子が産まれた時に、数日わたしが入院していて、久しぶりに次女と会った時の反応が「無」だったのも、憶えています。私に対しては表情豊かで、私だけをただ見てくる我が子だったのが、全く表情が無く反応も無く、「無」になってるのを見ると「あー、周りの人はこの次女をずっと見てきたのね、こりゃ心配するわぁ」と思ったことも。

あとはその頃罹った見事なおたふく風邪のほっぺたが丸々としていて、あまりにも愛らしくてかわいくて、小さなことなんてどーでもいいやって思えたことも。

色んなことが重なり合って、ようやく次女3歳の春、母の重い腰が動いて、はじめての発達外来の受診に繋がりました。

まあそれはそれは見事に、私は子どもの障がいにしっかりと向き合うことが出来ずに、1年ないし2年、ただただ逃げ続けて来ました。
反省はしてますが(子どもに対しては)、後悔は無いです。私にとって障がいの受容の第一歩というものが、それだけ受け入れ難い事実だったということ、誰かこの気持ちを理解してもらいたいと思いながらも、当然気持ちをまるっと理解できる人なんているはずがない。
そしたら、受け止められるようになるまで、逃げるしか無いと思ったのです。あくまでも私の場合。

私が逃げていても、夫は支えてくれてたと思います(そこも悲しいくらい記憶が無い)。夫もしんどかったと思います。私が逃げても、保育園の先生たちや父親である夫が、隙間を埋めてくれました。友人たちもこっそり支えてくれました。育児なんて1人じゃ出来ないってよく言いますが、本当にそうだと思います。障がいがあろうと無かろうと。

今の日本ではまだまだ、母親には責任がのし掛かるものです。それでも、耐えきれない、受け止めきれない辛さや現実からは逃げて良いと思います。逃げても逃げても追っかけてくるから。逃げてパワー貯めて充電して、少し立てるなと思ったら、その時立てば良い。そのタイミングは、自分で決めれば良い。


良く「あそこのお母さんは障がいの受容が出来てないから…」とかいう言葉を耳にするたび、胸が痛みます。
待って。待ってあげて。お母さんの何かが溜まるのを、タイミングを待ってあげて。そのタイミングを待てるように支えてあげて、と切に願うし、私も待てる支えられる人になりたいと思います。


どうでも良い日常のできこと③

仕事中に車ぶつけられた新年度初日。チーン。