「虫愛づる姫君」の蜂愛づる父
『堤中納言物語』に掲載された物語のひとつ、『虫愛づる姫君』は、現代でもよくモチーフにされる人気作品だ。花や蝶ではなく、毛虫を愛して、年頃なのにお化粧もしない!という、変わり者のお姫様の話である。
「虫愛づる姫君」の物語内では、両親は「娘の変な趣味には困ったもんだ」と言う。しかし、実はこの姫にはモデルがいる。(※諸説あり)
それが藤原宗輔《むねすけ》の娘、若御前……!なんだけど、エピソード自体はパパ宗輔がモデルになっているという説もある。
物語では娘の変わった趣味嗜好に頭を悩ませていた両親だが、元ネタは父の方が変わってるという……。
さて。この藤原宗輔という人は、最終的には太政大臣まで出世しているのだが、それはなんと80歳になってから!
それまでは、その個性的な趣味や行動に注目されていたようで……。説話によれば、異様に足が速かったとか、菊や牡丹を育てるのがめちゃくちゃ上手いとか、すごく個性的なエピソードが残っている。
音楽にも秀でていて、笛も筝《そう》(≒琴)も得意だったらしい。そして、
「死ぬことからは逃れられないから、死ぬこと自体は怖くないんだが、唯一がまんできないのは、死んだ後、笛を吹けないことかなあ」
という言葉が、『古今著聞集』にある。上手いだけでなく、心から好きだったようだ。
そんな多趣味な宗輔の、中でも特に変わっているのがそのペットである。
それはなんと……蜂!
数えられないくらいたくさん蜂を飼っていて、その蜂たちに一匹ずつ名前までつけていたとか。『十訓抄』では編者が覚えていなかったのか、「なに丸(なんとか丸)」、「か丸(かんとか丸)」と、適当な名前になっているが、『今鏡』によれば「足高(あしだか)」、「翅斑(はねまだら)」、「角短(つのみじか)」と、具体的な名前が出ている。どうやら体の特徴で名前をつけていたようだ。
そして蜂たちは名前を呼ぶと、ちゃんと寄ってきたんだそう。しかも蜂たちをコントロールも出来ていたとのことで、指示をすると、ちゃんと言うことも聞いてくれるという。
宗輔が、蜜を塗った紙を頭上に掲げると、一気に集まってくる、というのは序の口。宗輔さんちの侍を怒る時に、蜂に「足高!あいつを刺して来い!」と命令すると、実際に刺しにいったそうです。(やめて差し上げて)
宮中への通勤時には、蜂たちは宗輔が乗っている牛車の窓のところをブンブンと飛び回り、宗輔が「とまれ」と言うと、ちゃんと止まったとか。ご主人が出ていくのが寂しくてブンブンしてた……ということだろうか。蜂なのに、飼い主を慕うワンコのような振る舞いである。
世間の人たちは、そんな蜂に囲まれた宗輔のことを「蜂飼の大臣」と呼んでいたとか。
だからといって尊敬されていたわけでもなかったらしく、「蜂なんか飼っても役に立たないのに」と言われていたそう。と、いうことは、蜂蜜を集めて食べていたわけではないのだろうか。「はねまだら」という名の蜂がいることから、ミツバチでは無い蜂、たとえばアシナガバチではという説もあるが、どうだろう。
ここ、地味に養蜂の歴史にも関係しそうな部分である。
さて、あるとき宮中でちょっとした事件が起きる。(『十訓抄』)
五月頃、鳥羽殿で、蜂の巣が突然落ちて、鳥羽上皇の御前に蜂がたくさん飛び散ってしまったのだ。
「ぎゃー!刺されるーーー!」
と、その場にいた人は大混乱。貴族たちが必死に逃げ惑う中、救世主が。
そう!我らが宗輔である!!
宗輔はその場にあった枇杷の実を一個とると、親指の爪でビーッと皮をむき、それをスッと持ち上げた。
すると、すべての蜂は枇杷にとまって離れなくなったので、自分のお供を呼んでそっとそれを渡した。宗輔は、ふだんから蜜を塗った紙で蜂を集めていたので、よその蜂相手でもすぐに対応できたのだろう。ところで宗輔のお供も大量の蜂が止まっている枇杷を渡されるがまましれっと回収しているわけだが、やはりご主人のおかげで蜂には慣れているのだろうか……。
全てを見ていた鳥羽上皇は
「いいタイミングで宗輔がいてくれたー」
と宗輔を大変褒めたということです。蜂好きなのは役に立たないと言われていたけれども、こうして上皇を助ける役に立ったのだ! という逸話である。
蜂を飼って言うことを聞かせるなんていかにも作り話、物語だなあ! とお思いになるかもしれないが、実は今年、こんなニュースがあったのをご存知だろうか。
このニュースを見たとき、私は真っ先に「宗輔じゃん!!!!!!」と思ったのであった。
現代にこういう事例があるということは、多少の誇張はあるにしても、平安時代の宗輔も本当に蜂を飼いならしていた可能性が高いんじゃないかなーと思う。
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