秋風にたなびく雲の絶え間より
秋風にたなびく雲の絶え間より もれいづる月の影のさやけさ
百人一首79番、左京大夫顕輔の歌だ。
ここでいう「影」は「光」という意味で、「秋風に流れていく雲の隙間から、漏れ出てくる月の光の明るさよ」といった意味の歌である。
百人一首にはドラマチックな恋歌が多い。紹介する本としては、近年では漫画『うた恋い。』が有名だろうか。
そんな中、この歌は、秋の情景をそのまま詠んだ素直な歌である。私は和歌が専門ではないので、この歌の深く意味するところは詳しく知らない。もしかすると、裏の意味なんかがあるのかもしれないけれど、そういうことがなくても、この歌は美しいと思う。
素晴らしいのは。
たった三十一字。当時は「みそひともじ」と言ったのだが、この三十一字で、黒い雲の隙間から顔を覗かせる月(おそらく満月)、そしてその明るさが、現代人の私たちにもありありと浮かんでくるところだろう。
「たなびく」は現代でも使う言葉だし、古文特有の言葉は、「影」「さやけさ」くらいで、そこさえクリアすれば意味はストンと入ってくる。
「さやけさ」を訳すと「明るさ」特に、「澄んだ明るさ」というニュアンスの意味になるが、「さやけさ」という言葉の語感が、冴えて澄んだ明るさを表す言葉として最上だと思う。こういうところに、古文を原文で味わう意味があると思うのだ。
この歌は、古文をろくろく知らない中学一年のときから、心に残っている歌だ。私は、百人一首で一番好きな歌は何か、と言われたらこの歌を挙げる。
作者の藤原顕輔は六条藤家という和歌を専門とする家の当主だった人で、小倉百人一首の編者である藤原定家の御子左家とはライバル関係にあった。(定家の父俊成より年上なので、定家自身とは世代が違う)
政治的な立ち位置としては色々あっただろうが、秋を愛したと言われる定家は、この歌を百人一首に選んだ。そのことからも、当時からの評価の高さがわかる。
和歌は、あまりそのまますぎるものは評価を得ることは難しい。修辞や比喩、その場の状況に応じてすぐに詠む即興性が求められる。
この歌はストレートだ。ただ目の前にある情景を詠んだ歌だ。しかし、いつの時代の人がそこにいても感じることを、いつの時代の人が読んでも理解出来る三十一字で詠んでいる。
それは、どんな凝った修辞を駆使して作る歌よりも、むずかしく、価値がある。
私も、この歌のような作品を作ってみたい。
小説であったらとてもいいけれど、もっと広い視野で。
今回こうして整理して、私がこの歌にずっと惹かれていたのは、そういうことだったんだと、改めてわかった。
藤原顕輔は、私の尊敬する作家のひとりだ。