書類作成途中で漢字を忘れたら(古事談)
最近買ったばかりの『古事談』の文庫を読んでいたら、面白い逸話があったので今日はそれをご紹介。
源俊賢が議事録の書記係的なことをしていた時、「奝然 ※僧侶の名前」の「奝」の字を思い出せなかったので、黒っぽくなるようにちょちょっと誤魔化して書いたら、格上の貴族の源雅信に
「それは奝然の奝か、それとも敦か」
と指摘されてしまって、俊賢はこのことを終生の恥としたという。
源俊賢は四納言でお馴染み、行成と仲良しの俊賢さんですね。
かなり優秀で知識人の印象がある俊賢さんなので、こういう知識上のミスを指摘されるのは相当悔しかったのかなと。
とはいえ、「奝」って……。僧侶の名前で独特だし、日頃使う字でもないだろうから忘れちゃっても仕方ないというか、書ける人の方が少ないのでは……なんて思ってしまう。
面白いのが、字を忘れた時、咄嗟に黒っぽくモニョモニョ誤魔化して書くこと。なんかわかる。最近はデジタルやタイピングが多いので滅多にないけれど、手書きで書く必要があって、どうしても漢字がすぐ調べられない時は、ギリどうとでも見えるように誤魔化しちゃうかも。
漢字ド忘れ事件が古事談にはもう一つ。
藤原家忠(※宗忠という説も)という右大臣が除目の作成をしていたとき、「実衡」の「衡」の字をド忘れしてしまった。そこで、関白の藤原忠通に漢字を尋ねたところ、忠通は、
「行きの中の魚」
と簡潔に言った。それで「雪」の中に魚を書こうとするが、そんな文字もないので、すぐに黒っぽく書いて誤魔化したのだった。
またしても人名でつまずいている……。「衡」は「奝」よりは使う機会もありそうだけれど、ド忘れしちゃったものは仕方がない。
除目というのは、叙任・任命すること。つまり、辞令のリストを作っていたわけだ。名前を色々書いているうちに、ゲシュタルト崩壊して来たのかもしれない……。
そこで咄嗟に、自分より格上である関白忠通に、「あの……サネヒラのヒラってどんな字でしたっけ……」と聞いたのである。本来摂関家のトップに「あの漢字なんだっけ?」みたいな軽い質問をするのは躊躇われるだろうが、めっちゃ焦ってたからポロッと聞いてしまったのかな。
忠通という人は、説話を読むと意外と目下の者にもちゃんと応対してくれるタイプの偉い人なので、普段からよく質問されていた可能性もあるけれど。余談だが、忠通は私の推しである。
実際、忠通は「行の中に魚」と教えてくれる。漢字の形を分解してくれているので非常に明快で、現代の私たちでも「なるほど!」と思う教え方だと思う。図解するとこう。
たとえば「平衡の衡だよ」と言われても、「それはわかってるけどさ」となる可能性があるので、この教え方がすぐに出てくるのは、忠通賢いなあと思うのである。
唯一、「ゆく」と終止形で言えば完璧だったのに……。
「ゆき」と連用形で言ったものだから、聞いた家忠は「雪……?雪の中に魚……?」と混乱してしまった。ちくま学芸文庫では、著者の伊東玉美氏の評に
本話を読む度、わたくしは何となく、二つ三つほど点など打って雪を降らせたところに、魚の字を書いたように、勝手に想像してしまう。
とあって、想像したら雅で笑ってしまった。貴族ならではの勘違いとして、とっても有りそう。
実際描いてみるとこんな感じだろうか。
そもそも、忠通は「行」という字を横に割ってその中に「魚」を……という意図で言ったのに、どう頑張っても縦に入れざるを得なくなっていたのが笑ってしまう。
焦って偉い人に漢字を聞いてしまった家忠は、さらに焦ったことだろう。教えてもらっておきながら正しく書けないとなったら、えらいことである。そして結局くちゃくちゃっと誤魔化して黒っぽーく書いたのであった、と。
私はこういう、日常のちょっとしたエピソードが好きだ。立場や時代が違っても、つまずくところは案外今と変わらなかったりするのがわかると嬉しくなる。
平安貴族といえば、すまし顔でそつなく仕事をこなしていそうなイメージがある。けれども、おそらくどの時代でも「わかるー」ってなるような、凡ミスやテキトーな誤魔化し方をしているのが、新近感が湧いて面白いと思うのである。