平安時代も女性は自分のためにおしゃれする
昨日枕草子の記事をまとめながら、女性がおしゃれをすることについて、改めて思ったことがある。
最近ではあまり見かけなくなった気がするけれど、女性が髪型を変えたり、ネイルや化粧を派手目にすると、「そういうの男受け悪いよ〜」という余計なお世話なアドバイス(犬山紙子さん風に言えばクソバイス)をされてイヤな思いをした、という話を以前よく見かけた。
派手なリップを塗るのも自分のためだし、攻撃力高めのネイルにするのも自分のため。会社におしゃれな服を着てきたって、別にデートするからではない。そういう気持ちは、私もよくわかる。先日髪を染めたけれど、別に誰に見せるためではなくて、自分で自分の髪が素敵になったところを見たかったからだ。
「メイクは女の武装」と言う人もいる。それは誰かに見られることを前提としている言葉のように見えるが、それだけではない。誰に見られていなくたって、自分の士気を上げ、気力を回復させる意味もある。ポケモンで喩えるなら、「私の攻撃力がぐーんと上がった」「私のHPが回復した」みたいな感じである。
この感覚は、一見古い価値観から、男女平等になったからこそ生まれた現代的な価値観のようにも思える。
しかし、自分のために着飾るという価値観は、平安時代から存在するものなのだ。
『枕草子』の「心ときめきするもの」という章段において、清少納言がはっきり書いている。ここでの「心ときめきするもの」、とは諸説あるけれども、辞書には「胸がワクワクするもの」という訳が当てられている。現代語の「ときめく」に近い感覚で理解しても大丈夫だと思う。
髪を洗ってお化粧して、良い香りのする服を着ているとき。特に見る人がいなくても、私の心の中は「いとをかし」だわ。
(原文:頭洗ひ、化粧じて、香ばしうしみたる衣など着たる。殊に見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし)
清少納言は、「誰に見られていなくたっておしゃれをしているときは胸がときめく!」と言っている。そして、心の中は「いとをかし」とも。ここでの「いとをかし」は敢えて訳さず、言葉のままに受け止めておきたい。
これの前にも、「良い香を焚いて、一人で寝ること」(原文:よき薫物(たきもの)たきて、一人臥したる)とも書いている。これは、現代でいうと
「枕や布団に好きな香りの香水を吹きかけて、いい香りに包まれて寝るの!」
という感じ。平安時代、例えば和歌で「ひとり寝」は寂しいものだという前提で使われていることが多い。現代でも「ひとり寝の夜」と聞くと、ちょっと寂しい感じがするかもしれない。しかし、この場合は「一人が正解」なのである。一人だから、好きな香りを堪能してリラックスしながら寝ることができるのである。
清少納言は「一人での時間」を大切に、楽しく思っていることがわかる。
清少納言だけがこういう価値観を持っていたのでは、という指摘もあるかもしれない。実際、清少納言は結構現代的な感覚を持っているなあと思うことは他にもある。けれども、やはり、平安時代でも自分のためにおしゃれを楽しむという感覚が存在したからこそ、『枕草子』は宮中でも広く受け入れられたのではないだろうか。
平安時代は男尊女卑のイメージが強い人も結構いるのではないだろうか。何か時代遅れの価値観を目にすると、「平安時代かよ!」なんていうツッコミをしているのを見かけたりする。
実際、平安時代女性に男性と同じだけの権利があったとは言えない。だから、その見方も間違いではない。しかし、すべての女性が男性に縛られて、虐げられて生きていたわけではない。宮中で、ときには女性の方が力を持つこともあったし、家を相続するのは女子であり、理不尽なことがあれば裁判を起こして戦うこともあった。
私たちが思っているよりもずっと、平安時代の女性の心は自由だったのかもしれない。
私は今まで『枕草子』以外の女房日記は説話や物語に比べてあまり面白くないような気がして苦手なほうだったのだが、今度はそういう視点で他の女房日記も読んでみたいと思う。(さしあたっては『更級日記』と『和泉式部日記』が気になる。)
誰が見ていなくても、おしゃれをすると何よりも自分が嬉しくなる。その感覚は平安時代も現代も同じ。だとしたら、私たちは、平安時代の女性たちとも普通にガールズトークができるんじゃないだろうか。きっとできると思う。