幻肢痛とペルソナ
幻肢痛と、ペルソナは似ている。
ペルソナとは、自己(生者)と他者(死者)との関係性(歴史性)を通じて、その他者に自己意識が無いにもかかわらず(例えば脳死状態)、その他者の身体のうえにあり、こちらに「声」を発する主体のことである。
ペルソナの次元は、その他者の身体が無くなっても存在し続け、今はもういない他者の生活圏に現れてくることもある。その場合の他者とは、「死者」のことであり、「幽霊」に類するものである。
生活圏に現れてくることの別の側面は、モノのうえにその「他者」が現れてくることである。それはアニミズム的である。
幻肢痛(ペルソナ)は、無くなった足(死者)の場所(感覚的身体?)に、足が現れてくる感覚(生者)である。それは、その足と自分との関わりの証拠であり(歴史性)、それは「足首があったよ」と「声」をかけてくるのである。
しかし、ペルソナは「痛み」を伴わない。だから幻肢痛とは違う。
幻肢痛が「痛む」のは、幻肢(感覚的身体)が「思うように動かせない」からだ。「動く」、それは「経験」をすることであり、「経験」をする事で僕たちは「傷を負う」、その痕跡が「記憶」である。
「痛み」は、「動いた」後の「傷の痕跡」、「記憶」から生じる。そして、「痛み」を和らげるためには「動く」ことは、「傷を負う」ことになり、「痛みが生じる痕跡」となる。すなわち、「動き続け」ない限り、「生きた跡」という「記憶」から、持続的な「痛み」を感じることになる。
「生きた跡」とは、ペルソナでいう「関係性」のことではない。ここが、幻肢痛とペルソナの違いだと思う。幻肢痛では「関係性」を「後悔をしている関係性」と捉える。足が無くなったことを悔やんでいる場合がそうだろう。対してペルソナでは「関係性」を「希望のある関係性」と捉える。足が無くなったことは新しい自分の発見につながると考えている場合がそうだろう。
幻肢痛は、「過去の関係性」を軸とした「声」であり、
ペルソナは、「未来の関係性」を軸とした「声」である。
メモ…
幻肢痛は、「幽霊」的なペルソナとは言えるかもしれない。…恐怖と痛みは少し違うか。
幻肢は、床の底に入っていたり、自分の身体の中に入っていたりする。これは、ペルソナが無くなった場所から生活圏に広がる点で、アニミズムの側面に関わるだろう。
参考文献
青木 彬 「無いものの存在02」
https://note.com/akira1989/n/nc44d3c3fe612
伊藤 亜沙 『記憶する体』
國分 功一郎 『暇と退屈の倫理学』
森岡 正博 「ペルソナ論の現代的意義」
森岡 「そこに人間がいるとはどのようなことか」
森岡 「ペルソナと和辻哲郎」
森岡 「独在今在此在的存在者」