己の学問に対するスタンスを見極める事の重要性
精神活動の自由は憲法で保障されている権利の一つであり当然学問というのはその最たるものである。そのため、学問に対する向き合い方に関してもある程度の柔軟性は認められているはずである(ここである程度と表現したのは本当の意味で自由だとしてしまうと似非科学も容認されてしまい兼ねないからである)。
己が学問に対して何を求めているかを具体化することの大切さ
さて、ネット上には読書が大切だとかこれからの時代独学しないと生きていけないだとかいった言説が散見される。しかしここで疑問が生じる、そもそも何のために物事を学ぶのだろうか、社会的に大切だとされているから何となく学ぶのだろうか。ここで大切になってくるのが自分が何のために学ぶかといった視点である。
大学は学問する場所であり就職予備校でないといった意見を目にする(特にアカデミア界隈)。しかしだ、学問というものを就職のための手段として割り切っているのであればそれは目的意識の顕れであり、十分立派な営みなのではなかろうか。むしろ高校まで勉強することで周囲から称賛を浴び続けていたからその延長線上として大学でもなんとなくで勉強をし続けてしまうことの方が問題に思える。
事実、高学歴ニートといった人種にはそのタイプの子が少なくなく、己の学問に対するスタンスを言語化しきれず、何となくで学問を続けてしまい、取返しがつかなくなってしまった結果であるとみなす事もできる(実際には原因は様々であるし、心身の病によってその状態を余儀なくされてしまった人を責める意図は一切ない、むしろ共感を覚える)。
という訳で、まずは己が何のために物事を学ぼうとしているのかを考える癖を身に着けよう。目的はなんだって構わない、知的好奇心でもいいし、真理を解明したいでもいいし、研究職やりたいからでもいいし、なんなら金儲けの手段にしたいでも構わない。まずは自分が何を目的としているかを理解することが重要であり、それも自己分析の一環なのである。
正直なところ私自身も己の学問に対するスタンスを決めかねていたし、それが研究に対する躓きの要因の一つであったことは疑いようがない。つまり、私自身が偉そうに言える立場でないし、反面教師としてもらいたい思いすらある。
己の心の声に耳を傾けたとき、現実に目を通したとき、自分が学問に対して何を求めているのかが見えてくるだろう。私の場合は、平たく言うと学問を全体的に利益を享受するための手段としか見ていなかったのだということを自覚した。今にして思えば私は幼少期の頃から医者になりたい、ちゃんとした大学にでて公務員になるなり研究職に就くなりちゃんとした食い扶持を確保したいと言った即物的な目的から勉強をしていたという点では一貫していた。
昔は両親から医者になるのがいいよと言われたから医者になりたいのだとばかり思っていたが、子供心ながら医者になるのが安定性的にも金銭面的にも素晴らしい事であるということに気付いていたのだろう。個人の根底にあるものは余程のことがない限り変わりえないのだから、今現在の私も恐らく同様の理念を以てして学問をしているのだと思われる。
そんな単純なことを見失ってしまい、自分は研究がしたい、理論を解明したいだとかいった虚偽のやりがいを己の中に内面化しようとした結果齟齬が生じ、メンタルに支障をきたしただけの話に過ぎないのだ。それを悟った瞬間、私の体は地球の重力が半減したかのように軽くなった。課題の抽出に成功したのならば問題は解決されたも同然であるのだ。
外的な基準に操られることの不毛さについて
私が迷走状態に陥ってしまった原因は明白だ、それは外的な基準に自分を無理に適応させようとしてしまったからである。ここでいう外的な基準とは所謂世間体である。例えば大手企業に就職できれば勝ち組、アカデミアに残れる人は偉いだとか言ったものである。
確かに大手企業に就職できれば高い給与はもらえるし生活に困ることもまずないし、アカデミアに残れる人が優秀であることは事実だ。しかし、それを己が目指したいかどうかはまた別問題である。独立して仕事したいと思う人にとっては大手であろうが企業勤めの時点で魅力を感じないだろうし、学問に興味ない人がアカデミアに残ろうとはしないはずである。
東京の大学に編入学してからの私は、正に外的基準の奴隷であった。大学でちゃんと研究できる人が偉い、大手化学メーカーの研究開発職に就ける人が偉い、官僚になれる人が偉い、博士課程に行ける人が偉い、純粋に学問を楽しめる人が偉いだとかいった価値観に振り回されていたのである、それも無意識のうちにだ。
上記の何れの願いも実現しえないと知ったとき、私は夢から覚め、現実を直視するに至った。私は本当は上記のことを望んではおらず、まずは自分の生活基盤を確保したいと考えていた訳である。まず、私は実験という行為が何よりも嫌で高専時代実験から極力逃げ回っていた訳で、官僚にしろそもそもそれをやれるだけの体力も能力もなかった訳だ。また、学問を純粋に楽しもうと思ってすらおらず、何かしらビジネスに繋げたり将来への布石にしたいとしか考えていなかったのである。
私の生まれはあまり裕福でない、そもそも学問を純粋に嗜むには十分なお金や卓越した素養が必要である。それらを持ち合わせてない自分が純粋な学問をやろうと考える理由も特になかった訳である。勿論、強い熱意があれば純粋な学問を続ける理由にはなり得る。だが、私にはそのような熱意もなく、ただ自分の思考基盤を鍛える為、将来自分でソフトウェア作るなりして社会に還元するため、就職に活かすため程度にしか考えていなかったのである。
アカデミアの世界ではどうしても実学が軽く見られてしまう傾向がある。しかしだ、実学が理論に貢献した実例も少なくないわけで(確率論、熱力学など)別に実学だからといって卑下する必要もないわけである。むしろ役に立たないからこそ美しいとか言い出す人たちこそ問題であると考える(科研費もらって研究している立場であるはずなのに己の研究分野の実用性にすら意識が向かないのは如何なものか)。
また、読書は大切だといった刷り込みも外的な基準によるものに過ぎない。何のために本を読むのか、情報収集のためならば別に読書にこだわる必要はない、今の世の中動画学習できる教材にあふれている訳だし、web上で演習を通じて学ぶサービスだってあるわけだからだ。なぜ読書するか、それは効率よく情報を収集する、自分の思考基盤をより強固にする、自分の見知らぬ世界に触れる、想像力を養うなど理由は様々だが、何かしらの目的をもってして読書をすることだけは確かなはずだ。娯楽のためでも別に構わない。
目的のない読書が何をもたらすのだろうか。多読だとかあるが、本を読むことに専念してしまうのであれば思考する時間は必然的に犠牲になるわけだし、知識を吸収するどころか知識に自分が吸収される結果すら招き得るのではなかろうか。実際、速読や多読を勧めるブログを見ているとそのような傾向を強く感じてしまう。沢山本を読んで知識も豊富なはずなのに主張内容にそれ相応の重みを感じないのである。読書は世界を広げるとあるがどの様に広げ得るのか、広げることによって何が嬉しいのか、それらをちゃんと具体化できているのか、甚だ疑問である。
つまるところ、何をやるにしても自分がなぜそれをするのかという視点に立ち返って考える事が大切なのである。
まとめ
・自分は何のために学問をするのかをはっきりさせよう
・外の意見に惑わされて自分を見失わないようにしよう
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